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2024-12-18 11:41
(連載2)フィンランドの高校生が感動する日本の小学校
宇田川 敬介
作家・ジャーナリスト
しかし、その番組の内容は、私も見たが、今回と同じで「小学校の掃除当番」をやっていたのだ。その風景を見てサウジアラビアの皇太子が「大仰に」驚く。まあこれは番組であるからであると解説を受けた。「おお!何ということだ。日本では小学生が自分の使っている教室や机やいすを当番制で自分で掃除している。サウジアラビアでは掃除の専門の人がいて、その人に任せてしまうので、子供たちは自分で掃除をすることがない。大人になっても自分の使ったものを掃除するということを知らない人がでるのだ」というような解説をする。
そのうえで、先生にインタビューをする。「おお!なんということだ。自分で掃除をすることによって、自分の使っている教室や机や勉強道具に愛着を感じ、大事にする。その伝統が後輩達に伝わり、モノを大事にすることを学ぶのだ。何ということだ。素晴らしい」というように流れるのである。このことが、学校でいえば「日直」や「整列や行進」「運動会の練習」「自転車置き場」「給食や給食当番」「下駄箱」など、様々な、というか日本人ではまったく気づかない部分まで、いや、気づかないのではなく当たり前すぎてそのようなことを外国の人に驚かれることが不思議という内容が放送されているのである。要するに「日本人のあたりまえ」は、「外国にとっては賞賛されるべき行動」であると言ことなのである。
その内容がサウジアラビアだから、というものではなく、フィンランドの高校生も同じように「日本のあたりまえが、フィンランドの高校生にとってもすごい、称賛されるべきこと」であったということがわかるのではないか。特に、運動会の練習でソーラン節を練習している子供たちを見て「フィンランドにも伝統のおどりはあるが、そんなものは教えてもくれないし若い人は知らない、踊る機会もない」というのはある意味で、「文化を大事にする」ということが、日本の教育の中にしっかりとできているということではないのか。
フィンランドの学校などは、「子供たちを自由にする」ということを重要視するという事であったが、逆に「自由すぎる」ということが言われているということである。日本でもよくあるが、「効果を得るべき」が振り切れててかえって害悪になってしまうということがある。まさにその状態になっている。日本の様に「みんなで伝統に触れる」というのは「伝統を強制している」というのではなく「やってみて、体験してみる」ということである。体験もしない間に辞めてしまい自由というのは、子供たちの知る狭い世界での選択肢を強要することであり、子供たちに本当の自由、つまり、多くの選択肢を知った上で、その選択肢を選ぶという自由を与えることにはならない。日本はそのような「選択肢を与える中で、しっかりと伝統と文化そして、集団行動などを学ぶ」ということになる。それが日本の秩序につながっているのである。外交の人が来ることによって、改めてそのようなことを学ぶことができる。このような交流は、日本にとってもよいことなのではないか。(おわり)
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投稿履歴
(連載1)フィンランドの高校生が感動する日本の小学校
宇田川 敬介 2024-12-17 11:30
(連載2)フィンランドの高校生が感動する日本の小学校
宇田川 敬介 2024-12-18 11:41
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