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2013-02-22 10:29
(連載)アフガニスタン撤退をめぐる英国流後始末(1)
六辻 彰二
横浜市立大学講師
2月4日、英国のキャメロン首相はアフガニスタンのカルザイ大統領、パキスタンのザルダリ大統領を首相別邸に招いて首脳会談を行い、6ヶ月以内にアフガニスタンの旧支配勢力、タリバンとの和平合意を目指すという共同声明を発表しました。この会合にはタリバンにも参加が呼びかけられていましたが、タリバンはこれに出席しませんでした。英国はなぜ、この会談をプロモートしたのでしょうか。そして、タリバンを含む和平合意は成立するのでしょうか。英国とアフガニスタンの因縁は、19世紀にさかのぼります。両者はある時には協力してお互いを利用しあい、またある時には戦闘を繰り返してきた間柄です。19世紀のアフガニスタンは、イランからチベットに至るまでの地域でユーラシア南下を目指すロシア帝国と、植民地インドの確保を至上命題とする英国の衝突「グレートゲーム」の余波を受けた土地でした。死活的な植民地であったインドを北方から脅かされることを恐れた英国は、当時のアフガニスタンを支配したアミール(「イスラーム信徒の長」を指す尊称)と1855年にペシャワール条約を結び、相互の領土保全と一方の敵に対して協力してあたることを約しました。ロシア帝国やガージャール朝イランから防衛することで、英国はアフガニスタンへの影響力を増していったのです。
しかし、これに対してアフガニスタンも、英国の威光を利用しつつも、その支配下に置かれることを抵抗するようになります。アミールであったドースト・ムハンマド・ハーンがロシアの外交使節を受け入れたのは、その象徴です。これに対して英国は不信感を強め、かつてアフガニスタンを支配した一族、サドゥザーイー族の残党を擁してアフガニスタンに侵攻しました(第一次アフガン戦争:1838-42年)。現地の支配勢力と敵対する者を味方につけ、それを支援する顔をして軍事侵攻する手法は、帝国主義時代によくみられたものでした。しかし、「七つの海を支配した」英国軍は、内陸の山岳地帯を駆け回るアフガン騎兵のゲリラ戦術に翻弄されて、まさかの敗退。その後、1878年に再びアミール、シェール・アリーがロシア外交使節を受け入れたときに、英国は再び軍事侵攻を試み、これによってアフガニスタン支配に至りました(第二次アフガン戦争:1878-80年)。ただ、勝利したとはいえ、アフガニスタンを直接支配することの困難さを痛感した英国は、アフガニスタンの独立性を容認しつつも、その外交権を掌握し続ける「保護国」とする決定をします(1880年)。ロシアとインドとの緩衝地帯としてアフガニスタンを位置づけた英国は、直接支配することが困難な以上、ロシアに接近させないことをもってよしとしたのです。
ところが、英国により保護国とされたアフガニスタンでは、「鉄のアミール」と呼ばれたアブドゥル・ラフマーン・ハーンや、その後継者であるハビーブッラー・ハーンのもと、着々と反転攻勢の準備が進められました。アブドゥル・ラフマーン・ハーンは「イスラームの地の防衛」を至上命題とした一方、表面的には英国との友好関係を維持し、その支援の下で王立軍事学校、近代的な病院、水力発電所などの建設を推し進められたほか、徴兵制の導入や国有地の払い下げなど、軍事、産業、民生の各領域で近代化が推し進められました。つまり、歴代のアミールのもとでアフガニスタンは、英国の協力によって近代化し、国力をつけることで、最終的にイスラームの地から英国を追い出す下準備をしたといえるでしょう。この準備が奏功した契機は、第一次世界大戦(1914-18年)にありました。未曾有の大戦争の結果、工業生産高で米国に抜かれるなど、19世紀の超大国・英国は経済的・軍事的に衰退の道をたどり始めました。それに加えて、第一次世界大戦後、1919年のヴェルサイユ条約で「民族自決」が掲げられたにもかかわらず、そして第一次世界大戦で英国に軍事的に協力したにもかかわらず、この原則が適応されないことへの不満から、インドで暴動が発生し、南アジア一帯が不安定化し始めました。この機を逃さず、1919年5月、当時のアミール、アマヌッラー・ハーンは英国に対するジハード(聖戦)を宣言し、インドに侵攻して英軍との衝突に突入しました(第三次アフガン戦争:1919年)。同年8月、英国との間で結ばれたラワルピンディー条約により、アフガニスタンは外交権を回復し、アフガニスタン王国として完全独立を果たしたのです。19世紀、英国は「日の没さない帝国(世界中に植民地があったため、どのタイミングであっても、そのうちのいずれかは必ず昼間であった)」と呼ばれ、世界に冠たる植民地帝国でした。そして、その英国が触手を伸ばしながら、完全には支配しきれなかった数少ない例外の一つがアフガニスタンだったのです。そのアフガニスタンに対して英国が再び関与を強めたのは、2001年の米国同時多発テロ事件以降のことでした。冷戦期の1979年、ソ連によるアフガン侵攻(1979-89年)が発生しました。これに抵抗するために世界中からイスラーム義勇兵(ムジャヒディーン)が参集し、国際テロ組織アル・カイダを創設したビン・ラディンなど、その後世界的に知られることになったイスラーム主義者たちは、このときにアフガニスタンで邂逅したといわれます。
この頃、ソ連だけでなく、ソ連から援助を受けたアフガニスタン人民民主党による社会主義政権に対抗するイスラーム組織の一つとして、タリバンの結成を支援したのが、隣国のパキスタンでした。パキスタンは独立以来、カシミール地方の領有をめぐって隣国インドと争っていますが、冷戦時代のインドはソ連と友好関係にあり、必然的にパキスタンは米国と友好関係にありました。そのなかで、パキスタン政府はアフガニスタン難民に対して、神学校を通じて「思想教育」を施し、さらに軍事訓練を行いました。インドだけでなく、ソ連に援助を受けたアフガニスタンの社会主義政権に対抗する「手駒」として、タリバンはパキスタン政府によって育成されたのです。ところが、先に述べたように、ビン・ラディンをはじめとする海外のより過激なイスラーム主義者たちとの交流のなかで、タリバンは米国と友好的なパキスタン政府と距離を置き始めました。ソ連がアフガニスタンから撤退した後、混乱する国内を武力で抑えたタリバンは、1996年に首都カブールを占領し、「アフガニスタン・イスラーム首長国」の独立を宣言。イスラーム法(シャリーア)に基づく支配を打ち立てたのです。その一方で、国際テロ組織アル・カイダのビン・ラディンなどを国内に匿い、さらに東は中国の新疆ウイグル自治区から西は地中海沿岸に至るまでのネットワークを形成するなど、アフガニスタンはイスラーム過激派の一大拠点になっていました。こうしてタリバンは、「生みの親」パキスタンにも、徐々に手に負えない存在になっていったのです。(つづく)
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