国際政経懇話会
第311回国際政経懇話会メモ
「通貨の未来:仮想通貨はどこへ向かうのか」
平成31年3月27日(水)
グローバル・フォーラム
公益財団法人 日本国際フォーラム
東アジア共同体評議会
第311回国際政経懇話会は、経済学者の岩井克人氏を講師に迎え、「通貨の未来:仮想通貨はどこへ向かうのか」と題して、下記1.~5.の要領で開催されたところ、その冒頭講話の概要は下記6.のとおりであった。その後、出席者との間で活発な質疑応答が行われたが、オフレコを前提としている当懇話会の性格上、これ以上の詳細は割愛する。
1.日 時:平成31年3月27日(水)午前11時45分より午後1時45分まで
2.場 所:日本国際フォーラム会議室(チュリス赤坂8階803号室)
3.テーマ:「通貨の未来:仮想通貨はどこへ向かうのか」
4.講 師:岩井克人 経済学者
5.出席者:21名
6.講話概要
(1)貨幣論から見たビットコイン
「ビットコイン」とは何かと言えば、2008年「ナカモト・サトシ」(ビットコインの創始者と噂される人物)によって案出された、政府も中央銀行も関係ない独自のお金を指す。最近、よく受ける質問として、「ビットコインなどの『仮想通貨』の普及は、貨幣のない社会を招来するのではないか?」があるが、私の答えは「No」である。この質問は「現金」と「貨幣」を混同している。貨幣にはモノ自体の価値はない。紙幣は単なる紙切れである。法律で決められているから流通しているのでもない。では貨幣とは何なのか。「貨幣は貨幣として使われるから貨幣なのだ」と言うしかない。つまり、自己循環論法である。例えば、商品と貨幣の違いを考えてみたい。ここに100円のペットボトルの水がある。お金を支払って人がそれを手に入れようとするのは、「飲みたい」からである。商品の価値は究極的に人間の欲望が根拠になっている。では、お金はどうだろうか。ある人が商品を売って1万円札を受け取るのは、物として欲しいからではない。「ほかの人もそれを1万円札として受け取ってくれるから」に過ぎない。その「ほかの人」に1万円札を受け取る理由を聞いても「ほかの人もそれを1万円札として受け取ってくれるから」と答えるはずである。「貨幣とは貨幣として使われているから貨幣である」に過ぎない。「貨幣の自己循環論法」さえ働けば、「何」でも「貨幣」として流通する。その究極の形が、暗号化された単なる数字の羅列(仮想通貨)といえる。
(2)ビットコインは新しい貨幣か?
ビットコインなどのいわゆる仮想通貨には、貨幣論から見て何も新しいことはない。唯一の新しさはその技術にある。ブロックチェーン(分散台帳)という仕組みによって、偽造などのトラブルを国家や中央銀行の介入なしにある程度防げるようにしたことである。だが、いまビットコインは投機物になってしまった。皮肉なことに、ビットコインは新しい貨幣だと騒がれたことが、値上がり期待を生み、投機の対象になったことで、貨幣になる可能性を自ら殺してしまった。「ナカモト・サトシ」がビットコインに託した夢は、民間の金融機関などが介入せず、お金をやり取りする市場参加者の間だけでお金の信用をチェックできる、純粋に分権的でグローバルな「自由放任資本主義」を成立させることにあったのではないか。そして、それは、F.A.ハイエクが唱えた「貨幣の非国有化」論に通じるものでもある。ただ、ハイエクの「貨幣の非国有化」論は理論上の誤りがあった。私は、「ナカモト・サトシ」やハイエクの夢であった「自由放任資本主義」について、未来はないと考えている。「自由放任資本主義」は必ず不安定性を持ち、皆が利己主義的に行動すると必ず崩壊する構造になっているからだ。貨幣はそれ自身が純粋な「投機」に他ならないからだ。私が通貨を受け入れるのは、それをほかの人が受け入れてくれると思うから。つまり、将来、ほかの人に売る(渡す)ために、現在、何かを買う(受け取る)からである。これはまさに投機で、必ずバブルやパニック(ハイパーインフレ)を伴う。つまり貨幣は根源的に不安定であり、社会を不安定にしてしまう。それゆえ、資本主義の安定性には、自己利益ではなく、「公共の利益」(景気対策など)に奉仕する「中央銀行」や「政府」が絶対に必要不可欠である。
(文責、在事務局)