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2007-06-05 00:36
ナショナリズムを否定するだけでよいのか
小笠原高雪
山梨学院大学教授
台湾の観光地として有名なものの一つに忠烈祠がある。それは日本統治時代に台湾護国神社が所在していた場所であるが、その後国民党統治時代に大殿が建設された。抗日戦や国共内戦などで戦死した英霊をはじめ、さまざまな分野で国家に貢献した人々が祀られている神聖な場所である。
私も数年前に学生有志を連れて台湾を旅行した際、この忠烈祠を訪れた。バスが忠烈祠に近づいたとき、台湾人のガイドが「儀仗兵が交代のセレモニーを行なっています。写真を撮るのは結構ですが、衛兵の進行を妨害したり、彼らをからかったりしないでください」と注意していた。「ずいぶんと過剰な注意だな」と思いながらバスを降りたのであるが、まもなく愕然とする情景に出くわした。明らかに日本人と思われる数人の観光客が、衛兵の横や後ろで彼らと同じポーズをとって周囲の仲間の笑いを誘い、自らもまた得意気な顔を見せていたからである。
私が忠烈祠を訪れたのは一度だけであるから、そうした場面が常に見られるわけではないであろうし、いまでは過去の話であるかもしれない。しかし、あのとき私たちが見た情景はまことに恥ずべきものであり、学生たちが憤慨したのも当然であった。どのような場所であれ、真剣に仕事をしている人々の物真似をして、笑いの材料とするようなことは、不作法な行いである。まして、それが忠烈祠のような場所であったとすれば、不作法の域を通り越した行いであるというほかはない。ガイドがわざわざ注意していたところをみると、それは稀に見る情景というわけではなかったのであろう。
どうしてこのようなことが起きたのであろうか。あれこれ考えるうちに思い浮かんだことの一つは、私たちが受けてきた教育である。敗戦後の日本では、国家のために尽くす行為は必ずしも賞賛されず、戦死者に敬意を表することは否定的に扱われてきた。私自身もあまりに時代がかった国家主義には違和感を禁じえないし、ある程度の醒めた心は行き過ぎを防ぐ意味では必要であると思う。しかしそれもつまるところはバランスの問題であろう。過去の軍国主義に対する強い否定の気持が、一般的な感受性の欠如を生み、他国の英霊を侮辱する行為をもたらすとしたら、もはや自己矛盾というしかないのではなかろうか。
国家の枠を超えたリージョナリズムやグローバリズムの動きは確かにあるし、それらを育むことも必要なことであろう。しかし、だからといって、人々の団結心の対象としての国家がいますぐ消滅するわけではない。国際政治の世界といわず、スポーツの世界を例にとっても、ワールドカップに「ASEANチーム」が参加したり、オリンピックに「東アジア・チーム」が参加したりし、地域の諸国民がこぞって声援を送る姿は、当分のあいだ想像しがたい。リージョナリズムやグローバリズムの台頭する時代であればこそ、それらとナショナリズムを適切に対置させることが必要であると思う。
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