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2019-03-14 12:20
(連載1)情報管理の重要性
緒方 林太郎
元衆議院議員
あるきっかけで、GATTウルグアイ・ラウンドの際のコメ自由化交渉の事を調べていました。1986~1993年のウルグアイ・ラウンド当時、「例外なき関税化」を巡って激しいやり取りがジュネーブのGATT本部でなされていました。「例外なき関税化」を打ち出したのはアメリカ。そして、1991年の「ダンケル・ペーパー」で当時のGATT事務局長のアーサー・ダンケルがこの考えをたたき台として上げて来ました(最終的にはダンケル・ペーパーは微修正されて最終合意に至っています。ウルグアイ・ラウンドの最後の2年くらいは、「日本や韓国のコメ」とか、「ECの輸出補助金」とか、そういう残された課題をどうするかだけだったわけです。)。(注:「関税化」というのは、例えば従前可能であった「輸入禁止」とか「数量制限」とかをすべて止めて、輸入障壁は関税のみにするという考え方です。当時、日本にはコメ以外にもガチガチの数量制限をしている農林水産品がありました。)
当時、日本は「コメの関税化反対」を強く打ち出していました。ウルグアイ・ラウンドというと、今から思い直すと知的所有権、投資、アンチダンピング、紛争解決、食の安全等、非常に多岐に亘るテーマが取り上げられましたが、国内では「コメ、コメ、コメ」でした。後日、ダンケル事務局長はたしか「日本からは非常に多くの関係者が来て、コメ自由化反対の話をしていった。自分は可能な限りすべてに会って『例外なき関税化』の話をしたが、あれはどの程度通じていたのであろうか。」みたいな話をしていたと記憶しています。当時の報道を見直してみると、農水省は「コメについては、6年間の猶予を経て関税化」というアイデアで走っていました。関税化というのは何かというと、ある一定の数量は低関税(一次税率)で輸入する、それ以上については高い関税(二次税率)を払うという事です。ウルグアイ・ラウンド時点では、世界中に「輸入禁止」措置が横行していたのですが、こういう形ですべての農産品について一定の市場開放をする事をアメリカが提案し、「ダンケル・ペーパー」はそれを踏襲していました。同ペーパーでは、1年目(1995年)消費量の3%から、6年目(2000年)消費量の5%での低関税輸入が提示されていました(毎年、輸入量が0.4%ずつ増える計算)。
しかし、平成5年10月の交渉最終盤で、韓国の東亜日報が「コメについて、日本は6年の猶予を置いて関税化」と報じます。国内外は大混乱に陥り、コメの市場開放に対する国内世論がどんどん硬化していきました。ただし、交渉中、特にこの時期に何が起こったかについては、私は極秘文書を見過ぎているので慎重に書きたいと思います。
最終的な合意は、(1)1年目(1995年)消費量の4%から、6年目(2000年)8%について低関税(無税)輸入(毎年、輸入量が0.8%ずつ増える)、(2)6年間は二次税率による輸入可能性はなし、(3)6年目以降について事実上白紙、という事になりました。6年間は決まった数字以上は絶対に輸入しないという事(2)と、6年終わった後も何の約束もないという事(3)で、日本側から見ると「関税化ではない」という理屈になり、アメリカ側からすると、一定の輸入枠は取れた(1)という事で、それぞれにある程度顔が立つようにはなっています。(つづく)
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