時代がとぶが、1993年に欧州連合(EU)が誕生する前から、おそらく1987年に欧州共同体(EC)の「エラスムス」プログラム(EC内の大学生・院生・教員の交流を支援する)が始まる頃から、理論経済学・計量経済学以外の社会科学分野でも英語利用が進み始めていた。1990年代、ヨーロッパの英語を母語としない友人たちは、翻訳に頼ってスミスを読んだ後、哲学者バートランド・ラッセルの『幸福論』(Conquest of Happiness、1930)を読んでいた。平明な文体で書かれ、語彙は西洋言語ではかなり共通するようだ。同書は二部構成で、第一部「不幸の原因」、第二部「幸福をもたらすもの」となっている。欧米の歴史、伝統、小説が反映されている。第一部に登場する「ピーター大帝は不幸であった」「ナポレオンは不幸であった」話はよく会話にのぼった――これでラッセル『幸福論』を読んでいるか読んでいないかがわかった。第二部のラッセル自身の楽しい体験も会話のネタになることがあった。彼は川下りが趣味で、揚子江を遡上した経験を記している。日本のことも少し登場する。若い非英語母語話者たちの英会話の練習にちょうどよかったようだ。安藤貞雄氏による和訳では、pleasureに、「快楽」や「楽しみ」があてられた(日本語では、貝原益軒の『楽訓』(1710)を想起したい)。さらに思い出せば、1990年代当時、スミスの翻訳の性質も話題になっていた。(日本では、21世紀になって新訳が登場した。)