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2011-10-12 13:48
(連載)アフリカのリーダーが示す光と影(2)
六辻 彰二
横浜市立大学講師
アフリカ諸国政府からは、文化相対主義に基づき、グローバルな人権規範を強要されることへの反論もあります。しかしこの反論は、価値基準の相違だけでなく、国内の政治的な背景に由来する部分もあります。アフリカにおいて、首長はいまだに大きな影響力を人々に対してもっており、政府と権力を分有する状態が続いています。そのため、各国政府は欧米諸国からの要請もあって、女性の人権保護に熱心な顔をしつつも、国内政治的には、首長の権限を脅かすような慣習法の規制には踏み込めないでいるのです。拙著『現代ガーナにおける女性の権利保護:人権、慣習、政治の交差点』(2010)をご参照いただきたい。
いずれにしても、このようにアフリカでは、慣習法という、国家権力とは異なる、いわば社会的な権力による、女性の権利の侵害あるいは制限が常態化しています。裁判所の不足から、民事訴訟に相当する司法手続きが、慣習法で運営される「伝統的裁判所」によって行われることも、稀ではありません。その場合、首長が司法判断を下すことになります。いきおい既存の社会的権力に有利な判決が下りがちですが、ほとんどの貧困層や農村住民にとって、公的な司法へのアクセスが難しいことから、結局は慣習法にのっとって問題を処理せざるを得ないことが多いのです。ただし、これが従来からある、人権の制約に繋がることは、言うまでもありません。
人権の侵害というと、一般的に政府が国民に対して行うものと思われがちですが、近代以降の欧米諸国で人権規範が発達した際にも、やはり家族をはじめ、社会から個人に対する権利の侵害が問題視されました。現代のアフリカでは、いかに国法で「法の下の平等」が謳われていても、実際には女性をはじめ、若年層や移民といった社会的弱者の権利が社会的権力から保障されることは、困難なのです。
ただし、注意しなければいけないのは、「文化相対主義」はアフリカ諸国政府の単なる方便と言い切れない、という点です。原子論的な個人主義に立脚した、近代西欧の人権規範が、世界のどこでも通用するとは限りません。アフリカのように共同体的な紐帯が濃密な地域では、なおさらです。それが誤っていると一方的に断じることは、一種の文化帝国主義にあたります。(つづく)
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(連載)アフリカのリーダーが示す光と影(1)
六辻 彰二 2011-10-11 10:06
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(連載)アフリカのリーダーが示す光と影(2)
六辻 彰二 2011-10-12 13:48
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(連載)アフリカのリーダーが示す光と影(3)
六辻 彰二 2011-10-13 11:38
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