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2011-07-29 09:53
(連載)「神々の闘争」から「神々の共存」へ(3)
六辻 彰二
横浜市立大学講師
「日本人だから助け合うのが当たり前」という主張は、暗に被災したのが日本人だけという想定があります。しかし、現実に多数の外国籍のひとが被災したことを考えれば、これも「ナショナリティと協力」の裏返しといえるでしょう。
「日本」という社会に暮らす個々人が、自らの立場で自発的に、社会の再生に協力できることが重要だとは思います。しかし、そこで重要なことは、「日本」という既に多国籍化、多文化化している社会を、いかにして再生するかということのはずです。容易に共感が可能と想定される同一のナショナリティに話を矮小化することは、いわばどさくさにまぎれて「神々の闘争」のなかの特定の神に、無条件に優位を与えるものです。それは、従来閉鎖的な日本の「ムラ社会」の求心力を安易に再興させる手段(例えば、『国難』という表現)にはなるでしょうが、開かれた「マチ」としての日本の創造には繋がらないといえるのです。
この観点から、一定方向に向かって情報や意識が傾くなか、個々人が自律的な判断に努めることが不可欠です。それは、必然的に「神々の闘争」に向かう可能性が大きいわけですが、他方で日本には古来、異なる価値観が融通無碍に結びつきあう、「神々が共存する社会」がありました。むろん、「言うは易し、行うは難し」です。「多文化主義」で先行するカナダやオーストラリアでも、人種主義的な排外主義がなくなったわけでないことに鑑みれば、異なる価値観が衝突なく共存する社会の創生は困難です。
しかし、少なくとも、現今の日本文明が、本来的に極めて受容度の高いものであったことに鑑みれば、その延長に想定される「日本の再生」は、神々が理解しあえないという前提に立つ西欧文明とはまた違うものとなる可能性をもっています。そしてその「日本の再生」は、いかなる「神」を我が物としているのかを、各人が改めて再考し、自覚することから始まるのかもしれません。(おわり)
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投稿履歴
(連載)「神々の闘争」から「神々の共存」へ(1)
六辻 彰二 2011-07-27 10:05
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(連載)「神々の闘争」から「神々の共存」へ(2)
六辻 彰二 2011-07-28 10:16
┗
(連載)「神々の闘争」から「神々の共存」へ(3)
六辻 彰二 2011-07-29 09:53
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