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2009-10-14 17:21
「東京五輪再び」の夢破れる
石川 純一
フリージャーナリスト
2016年五輪はリオデジャネイロに決定した。1964年以来2回目の開催を目指していた東京は過去最高のプレゼンを組むも及ばず。16年五輪の東京開催が決まっていたなら、筆者の生きている間に2回の五輪を拝めるかもしれなかったのだが、これでその可能性はほぼゼロとなった。1988年名古屋、08年大阪に続き、切り札だった東京でも夏季五輪招致はならず、3連敗となった。08年の北京五輪から8年後のアジア開催となることも、不利に働いたようだ。
1964年。昭和39年である。昭和30年代最後となるこの年の10月10日から同月24日まで開かれた東京五輪。かつて「五大国」の1つだった日本が、第2次世界大戦前に招致(開催予定は大戦勃発後となった1940年)に成功していながら、戦火がこれを押し流した。それだけに、アジア初の開催となるこの五輪は、日本の戦後復興、高度成長の象徴として、日本の戦後史に刻まれている。初めて教室に入った石炭ストーブにあたりながら、これまた初めて教室に入った白黒テレビで観戦したことを、今でも覚えている。筆者中学3年の秋だった。
思えば、この1964年は戦後の端境期でもあった。4月1日に日本人の海外観光渡航が自由化されている。ただし年1回で持ち出せる外貨は500米ドルだけ。日本の外務省がパスポート発給業務を都道府県に移管したのは7月1日になってからだ。要するに、首都高速の建設、新幹線の開通など東京五輪に「国民皆兵」的に邁進してきたのが、あの抜けるように青い秋晴れの開会式となって結実したといえる。まあ、そのような全国民的な盛り上がりに欠けていたと言われればそれまでだが。
が、世界的に見れば、この年が「平和の祭典」という五輪のスローガンから遠くかけ離れたものであったことは確かだ。新幹線が開通(10月1日)した10月の16日、中国がロプノール湖で初の核実験に成功し、核クラブの仲間入りをしている。同じ日に、フルシチョフがソ連閣僚会議議長およびソ連共産党第1書記を辞任、ブレジネフ時代が幕を開ける。11月に入ってからの米大統領選では、民主党のジョンソンが勝利。ケネディ暗殺の余塵がくすぶるホワイトハウスの主人となる。トンキン湾事件が8月に起こっており、米国のベトナム戦争介入、北爆開始へとつながっていく。
中東に目を転ずれば、第3次中東戦争はまだ起こっていないが、1964年5月にアラブ連盟が自らの下部機関としてパレスチナ解放機構(PLO)を設立している。要するに当時アラブ陣営の盟主として君臨していたエジプトのナセル大統領が、自らの傀儡の地位にパレスチナ人を置こうとしたわけだ。が、ファタハというゲリラ組織の一介の長でしかなかったアラファトが、PLO議長に収まる(1969年)ことに成功。以後、「PLOのパレスチナ化」と呼ばれることになる。東京五輪閉会式の翌10月25日、池田勇人首相が辞任。所得倍増計画など高度成長を仕掛けた吉田学校の逸材が、ここに戦後政治の表舞台から姿を消した。喉頭がんだった。19世紀生まれの最後の首相だった。
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