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2009-07-13 10:08
必要だったイラン革命から30年の歳月
石川 純一
フリージャーナリスト
イラン革命が起きた今から30年前の1979年という年には、実に大変な事が立て続けに起こった。長い髭のホメイニ師の顔が米紙「タイムズ」の表紙に登場したと思いきや、同年11月には堅固なことで知られるイスラム教ワッハーブ派の牙城サウジで、過激派が聖地メッカを占拠する事件が発生した。暮れも押し迫った12月27日には、ソ連軍戦車が怒濤のごとくアフガンに攻め入った。その一方で、イスラム革命の動乱の最中にあったテヘランでは11月、「米帝打倒」を叫ぶ学生らが米大使館を占拠して、館員らを人質に取る事件が勃発した。444日に及んだこの占拠・人質事件は、カーター大統領が退任し、レーガン新大統領が就任する81年1月20日まで続いた。その間、80年9月22日には、以後8年間続くことになるイラン・イラク戦争が起こっている。
明るい話が皆無というわけではない。1979年3月26日、前年のキャンプデービッド合意に基づき、エジプト・イスラエル平和条約が締結され、両国が外交関係を樹立した。過去4回にわたる中東戦争の先頭に立ったエジプトが、遂に矛を収めた。アラブ・イスラエル全面戦争の可能性が、限りなくゼロに近くなったのである。1994年には、ヨルダン・イスラエル平和条約が締結され、ヨルダンも矛を収めた。1975年のプノンペン陥落、続くサイゴン陥落で、第2次大戦後の米世界戦略は、東南アジアでも大きな見直しを迫られ、続くパーレビ体制崩壊で、中東・南西アジアでも大きくきしみ始めた。米ソ冷戦は依然として続いており、全世界のあらゆる紛争は、いつでも「米ソ代理戦争」に転化し得る可能性があった時代である。レーガン大統領が「悪の帝国」と喝破したソ連邦の崩壊など、誰も考えることができなかった。
さらにタイムスパンを広げると、1982年にはイスラエル軍がレバノンに軍事侵攻して、ベイルートからパレスチナ解放機構(PLO)を追い出して、PLOの対イスラエル軍事テロの芽を摘んだ。エジプトが脱落し、ベイルートを追い出されたPLOは、以後、長期的に見ればイスラエルとの平和共存の道を探る以外、何もオプションは残されなかった。実際のところ、1990―91年の湾岸危機・戦争で、イラクに肩入れして総スカンを食ったPLOは、オスロ合意に活路を見いださざるを得なかったのである。
こう見てくると、今も活火山なのは、第一に、旧支配政権タリバンの跳梁跋扈するアフガンとその背後に隠れている国際テロ組織アルカイダ、そして第二に、今回の大統領選に続く騒乱で民主化を叫ぶ勢力が皆無というわけではなかったイランぐらいなものか。しかし、イランは、アフガンやイエメンなどと同列の「破綻国家」というわけではない。湾岸戦争では、イランはイスラエルとともに軍事活動を控えた。父親ブッシュが謝意を述べているぐらいだ。落ち着くべきところに国際情勢が落ち着くためには、相当な時間が必要だ。数年ごとに特派員が入れ替わる日本メディアの国際情勢分析などたかが知れている。
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