国際政経懇話会

第232回国際政経懇話会
「最近の朝鮮半島情勢と分断体制の現状」(メモ)

 第232回国際政経懇話会は、小此木政夫慶應義塾大学教授を講師に迎え、「最近の朝鮮半島情勢と分断体制の現状」と題して、下記1.~5.の要領で開催されたところ、その冒頭講話の概要は下記6.のとおりであった。

1.日 時:2011年3月10日(木)正午より午後2時まで
2.場 所:日本国際フォーラム会議室
3.テーマ:「最近の朝鮮半島情勢と分断体制の現状」
4.講 師:小此木政夫 慶應義塾大学教授
5.出席者:29名

6.講師講話概要

 小此木政夫慶應義塾大学教授の講話概要は次の通り。その後、出席者との間で活発な質疑応答が行われたが、議論についてはオフレコを前提としている当懇話会の性格上、これ以上の詳細は割愛する。

分断体制とは何か

 第二次大戦後、米ソ両軍によって分割占領された朝鮮半島では、独立と統一が相克する「分断状態」が発生し、朝鮮戦争が勃発した。しかし、朝鮮戦争後、1954年に米韓相互防衛条約が、1961年に北朝鮮とソ連、中国の間に相互援助条約が締結され、さらに1965年には日韓関係が正常化された。1960年代後半までに北方三角と南方三角が対峙し、地域的相互抑止体制、すなわち戦争が不可能な分断体制が成立したのである。しかし、戦争の不可能性は必ずしも平和を意味しなかった。1960年代後半以後、北朝鮮側は全面戦争に至らない範囲でゲリラ浸透、要人暗殺、航空機撃墜などの局地的な武力挑発を繰り返したのである。他方、中国軍が北朝鮮から撤退したのに対して、在韓米軍が駐留したために、その作戦統制権の下にある韓国軍は自由に反撃できなかった。在韓米軍の最大の任務は「戦争の抑止」だったからである。このような非対称性が朝鮮分断体制の大きな特徴であり、昨年3月の韓国哨戒艦沈没、11月の延坪島砲撃もその文脈で理解できる。

昨年11月の延坪島砲撃事件について

 しかし、それ以上に問われるべきは、1987年の大韓航空機爆破事件以降、20年以上にわたって中断していた北朝鮮による武力挑発がなぜ昨年のタイミングで再び発生したのか、裏返せば、なぜ20年以上にわたって北朝鮮が武力挑発を中断していたのか、という点である。端的に言えば、冷戦終結以降の約20年間、北朝鮮にはそうした行動をとる余裕が存在しなかったのだろう。ソウル・オリンピックや民主化の達成に象徴されるように、その頃までに韓国との体制競争に敗北し、さらにベルリンの壁が崩壊して社会主義陣営が冷戦に敗北するという「二重の敗北」状態に置かれて、北朝鮮には武力挑発を行う余裕は存在しなかった。とりわけ、ソ連崩壊は分断体制の相互抑止機能の低下を意味していた。では、なぜ昨年それが再開されたのだろうか。第1に北朝鮮の核開発がウラン濃縮の段階に到達したこと、第2に大国化した中国が2009年夏頃から低姿勢外交を放棄し、勢力圏的な積極外交に舵を切り始めたことが重要である。これらの2つの要因が北朝鮮の武力挑発の再開を可能にしたのだろう。もちろん、第3に、金正日の健康に起因する後継問題も武力挑発を促進させただろう。その要素を軽視してはいけない。しかし、「後継者の帝王教育のために武力挑発を実行している」というのは、週刊誌的な過剰解釈である。第1、第2の条件が整わなければ、武力挑発は不可能であった。

2010年経済産業政策の流れ

 北朝鮮の外交戦略を長期的な視野で観察してみたが、武力挑発の短期的な目標についても議論する必要がある。何のための挑発であったのかと言えば、米韓双方の北朝鮮戦略、すなわち「条件付き関与」や「戦略的忍耐」戦略を挫折させるための「挑発」であった。言い換えれば、北朝鮮の対外戦略は「核開発を放棄しないまま、対米交渉を再開して、さらに南北経済協力を進める」ことである。中朝関係が緊密化しても、対米関係正常化の目標を追求し続ける。したがって、核開発の放棄はないが凍結は可能だろう。さらに、究極的には、それによって「生き残り」、すなわち長期的な体制維持を可能にしようとしている。もちろん、そこには後継問題も含まれている。南北間で緊張がいくら高まっても戦争に至ることはない。武力挑発が行き詰れば、対話攻勢に戻るだろう。水面下では南北首脳会談のための接触もあるはずだ。しかし、対話が不可能ならば再び挑発に戻る。次は第三回核実験かもしれない。これは「振り子」運動のようなものである。

(文責、在事務局)