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2019-07-29 12:13

『国富論』と和訳の問題

池尾 愛子 早稲田大学教授
 アダム・スミスの『国富論』は、英語で読む時と日本語で読む時とで、随分印象が違っていると感じるのは私だけではない。西洋の研究者がスミスを論じるのを聞いたほか、米デューク大学で「18世紀経済思想」のセミナーを聴講した時にも驚いたものである。セミナーの方は、マンデヴィル『蜂の寓話』(1714)から始まり、ロックやヒュームをたどって、スミスの『道徳情操論』(1759)と『国富論』(1776)で終わっていた。このセミナーに出ると、『国富論』の英語が突出して難しいことがわかる。スミスがわざと少し古い17世紀の英語を用いたようにみえる。英語で『国富論』を論じる時には、こうした古めかしい英語にも配慮しなければならない。
 
 『国富論』英語版では「勤勉」を意味する語「industry」が頻出する。私の学部生時代(1970年代後半)、「industry」は17世紀頃のイギリスでの流行語だと習ったように記憶する。昨年のことになるが、「industry」 を含む英文をある和訳の中で探していて、この語が「生産的労働」と訳されていることに気付いた。「勤勉」はその和訳には登場しない。『国富論』の和訳は1ダース以上出ていて、そのうちわずかしか目を通していないが、「勤勉」の語を目にした記憶はあまりない。17-18世紀頃の英語の意味を考慮すれば、「生産的労働」と和訳してよいのであろうが、その時には『国富論』から「勤勉革命」の側面が完全に脱落することに注意しなければならない。また英語で論じる時には、当然「industry」に戻して議論を整えなくてはならない。
 
 「商工業者たち」と和訳されたのは、「artificers」 と「merchants」で、「manufacturers」が入る場合もあった。「artificers」は武器職人で、スミスを語るときには「artificers」を使ってほしいとイギリス人研究者に言われたことがある。武器職人と商人が協力して、販路を確保しながら新製品を世に送り出し、人々の幸福の増進に貢献するのである。現在では「バリュー・チェーンの構築」と表現するものにつながってゆく。「manufacturing」は、17世紀英語では手工業を指すけれども、20世紀後半になると製造業と和訳されるようになっている。同じ英単語でありながら、時代を経て意味合いが変わってきているのである。また、スミスは武器職人の活動についてあまり描かなかったことは、イギリスよりも工業化が遅れたフランスのフランソワ・ケネーの『経済表』(1758年頃)での職工の活動の描写(スミスより詳しい)と比べるとよくわかるはずである。
 
 逆に、現代では使われていない用語法もある。スミスの「productive power of labour」は、スミスを英語で読めば、「total factor productivity 全要素生産性」と呼ぶようになっていることがすぐにわかる。スミスを英語で論じるときには、もちろん現代英語を修得し、同時に17世紀頃の古めかしい英語表現にも注意を払わなくてはならない。アダム・スミスは日本の経済学の基礎ではなく、言語文化の相違が壁として聳え立っているので、スミスを英語で論じる時には、スミスを英語で読んで用語法や言い回しをぜひ確認してほしい。アダム・スミス研究所のウェブサイトには、『国富論』等の縮約版や初学生向け解説、アダム・スミス講演の動画が掲載され、現代イギリス人によるスミスの英語での語り方もわかる。スミスを英語で論じるためには、まずスミスやスミス研究を英語でたくさん読んでほしいと思う。
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