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2012-01-14 15:10

パラレル・ヒストリー開始

池尾 愛子  早稲田大学教授
 2010年4月30日に本欄で紹介した国際会議(テーマは「計量経済学史」)の成果が、平易な英語で書かれた論文集としてようやく昨2011末に公刊された。現在では、データを自分で収集するか、既存のデータベースを利用するかして、コンピュータ上で統計的処理をすることが、計量経済学という専門分野以外でも定着している。振り返れば、この分野はコンピュータの進化、ソフトウェアの開発、データベースの構築が相まって、加速度的な変貌を遂げてきており、大学レベルでの社会科学系教育においても統計学の位置づけが高まってきているはずである。1980年代初頭には大型計算機センターに常に通う研究者がいたが、同年代末には大学院生もパソコンとガウス(ソフトウェア)を使っていたと記憶する。

 1980年代にはコンピュータ環境の変化が一般の人たちにも見えるようになっていたと思う。1985年に『計量経済理論』という英文専門誌が新しく創刊された。この分野の更なる隆盛を予感させるとともに、それまでこの分野で活動してきた研究者たちのインタビュー記事を定期的に掲載するようになったのである。どうも計量経済学研究の先端的世界が、一般の計量経済学者達にも見えづらかったようである。そして、ほぼ同時に、計量経済学についての歴史研究も一挙に始まった。ヨーロッパ、北米、それぞれで歴史研究が進められていき、計量経済学史の基本論文集も出版されている。大西洋をはさんだ研究交流は着実に進められてきて、欧米以外に、中国・台湾、日本(及び東アジア)を含んだ研究プロジェクトが、マーセル・ボーマンズ(オランダ)、アリアン・デュポン・キーファー(フランス)、デュオ・キン(北京出身、イギリス在住)によって組織されたのであった。

 専門会議の意義は歴史的事実を確認することにもある。フォン・ノイマンとO・モルゲンシュテルン(ハンガリーとオーストリア出身でいずれも米プリンストン大学所属)というゲーム理論の開拓者たちが、経済学においてコンピュータを駆使する研究プロジェクト(計量経済学)を先駆的にデザインしていた時期があった。ただフォン・ノイマンは既に入院していたので、プリンストン大学の場合、実際に指揮をしたのは経験豊かな数学者ジョン・チューキーで、C・グレンジャー(イギリス)と畠中道雄(日本)が実際にIBM650などを動かしてハーモニック分析を行っていた。IBM650はおそらく最後の真空管利用モデルであり、12月の厳冬のクリスマス休暇中、放熱のため部屋の窓を開け放って作業が進められた。外国人ばかりではなく、アメリカ人のJ・トービンも同様な作業を行ない、いわゆるトビット・モデルを考案している。これらは、1950年代後半のことである。20世紀後半の日本関連に絞ると、市村真一が日本だけではなく、東アジア諸国でも投入産出の経済学を広めたことは、海外の歴史家によって新たに注目された。米スタンフォード大学で教鞭を取り続ける雨宮健、経済企画庁・経済社会総合研究所や日本銀行で計量経済モデルが精力的に構築されていることは、以前からよく知られていた。

 1930年代の日本については、欧米で開発された手法やグラフを駆使して、日本のデータ(米や家畜など農産物データ、家計調査)を利用する研究が行われていたことについて、納得してもらえるように説明することはそれほど難しくない。欧米の経済専門誌が迅速に配布され、日本人も毎号読んでいた事実を挙げればよいのである。しかし2010年時点でも「日本人がそんな研究をしていたなんて信じられない」という疑問が投げかけられたものがあった。1930年代前半に杉本栄一が米穀データと格闘し、需要曲線の推計を越えて、需要曲線の時間を通じての動的シフトを研究していたことである。言葉(英語)でいくら説明しても信じてもらえなかったが、17世紀頃からの米穀データベースの質が良いことを強調した上で、杉本の『米穀需要法則の研究』(1935)からグラフを幾つかスキャンして見てもらいようやく信を得たのである。杉本の「米穀需要曲線の動的変化」のグラフに結実した研究は、時系列分析の萌芽もみられ、計量経済学史の基本論文集に収録するに値すると信じている。

 実は、歴史観をめぐって会議中も大いに議論になったのであるが、会議後も関連する議論が喧しく続いていた。国際化・グローバル化が進めば進むほど、ヨーロッパの中でも歴史認識に相違があり譲歩を許さない状況になっている。もちろん会議論文集をまとめる際には、「ユーロセンティズム(欧州中心史観)から脱却する」ことも重要課題だったはずである。闘いとも思われるような議論の結果、分かりにくい(シェアしにくい)とされる議論は削除し、歴史は一つではなく、複数存在することを意識して、『計量経済学に関する諸歴史(Histories on Econometrics)』(デューク大学出版会)という幾らか奇抜なタイトルで落着した。歴史研究では安易な妥協などすべきではないと思う。最後に、インド人の注目すべき功績も当初の研究提案には入っていたものの、書き手がいなかったために、本論集には入らなかったこと、ついでに、大洋州のオーストラリアの歴史家たちはオーストラリア・ベースで研究を推進することを既に宣言していること、アメリカの歴史家たちはアメリカ・ベースの研究を着々と進めていることを記しておく。
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