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2007-12-10 20:10
南開大学の学生たち
岩國哲人
衆議院議員
1999年10月8日、成田から北京に到着し、高速道路を走って、天津市に入った。特徴のある故毛沢東主席の筆になる「南開大学」の額がかかる門をくぐって外賓宿舎に入る。その夜は、夕食を済ませてから、星空の下、構内を歩いて図書館を視察した。夜9時を過ぎても10時の閉館ぎりぎりまで読書室やインターネットルームで勉強している。声を掛けてみた学生は9月に入学したばかりの物理学部の1年生で、微積分の本を広げていたが、利発そうな目が印象的だった。翌日は、早朝から客員教授任命式が行われ、立派すぎるぐらいの会場設営一つをみても、大学側の期待の大きさがよく分かり、あらためて責任の重さに身の引きしまる思いだった。こうして私の南開大学政治学部での第1回講義が始まった。
南開大学に第1期生として入学した故周恩来総理の滞日中の日記が、『周恩来 十九歳の東京日記』(小学館文庫、1999年)として日本で出版されている。 たしかに、10年、20年前には考えられなかったことだろう。中国と日本とのいまだに屈折した関係の中で、現職の国会議員に教室の中でじかに学生たちに何の制約もつけずに自由に講義をさせるなどということは。とりわけ私の場合には資本主義の牙城と目されている米ウォール街に長くいた人間であり、共産主義の国の名門といわれる大学の教室とはまず縁がないと考えるのが常識だったはずだ。このあたりにも開放路線をとる中国の「日新月異」と表現される姿勢がうかがわれる。
中国と日本は一衣帯水の隣国と呼ばれ、長く親しい関係を持っていたにもかかわらず、今から140年前の明治維新を境に日本は西欧の後を追いかける近代の道を模索し始め、次第に中国とたもとを分かつようになり、両国の精神的な距離も広がるようになってしまった。以来、日本人は古典の中の中国人は敬愛し続けながらも、現に生きて存している中国人を見下すような面が出てきた。たとえば戦前の日本人は杜甫や李白の漢詩、三国志、孔孟、老荘、四書五経をこよなく愛し続けながら、一面では現実の中国を見下す風潮があったことは否定できない事実だったと言わざるを得ないだろう。この中国人に対する情緒的な二重性こそが、日本の中国侵略を許したのだと指摘する人もいる。
講義が終わって学生たちの質問の手が上がる。「グローバリゼーションで勝ち残る日本の戦略は」「日本は米国依存から脱皮できるか」「世界2位の日本の防衛費をどう思うか」「同じ敗戦国のドイツに比べて国際問題で日本の発言が注目されないのはなぜか」などなど。午前中のスケジュールが終わって、200人の学生たちと別れて昼食の場所へと向かった。プラタナス並木の下を朱光磊教授兼政治学部長、于斌副教授たちと歩いているとき、「シェンシャン、シェンシャン」と叫びながら追いかけてきた学生がいた。見ると、つい先ほど手を上げて質問した「防衛費」と「ドイツに比べて」の2人の学生ではないか。サインをしてほしい、写真に一緒に入ってもらいたいと、追いかけてきたのだという。「次の講義はいつ来てくれるのですか」と私にきく2人の学生を見ながら、于さんがポツリと言った。「この二人はもう先生のファンになってますよ。早くここへ帰って来て下さいよ」と。「シェンシャン、シェンシャン(先生、先生)」と声をあげて追ってきた学生の声。永田町できく「先生」と違って、なんと新鮮な響き。あの響きを私は一生忘れることはないだろう。
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