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2007-07-02 02:51
防衛相の発言は「罷免」を正当化するか?
小笠原高雪
大学教員
日本への原爆投下をめぐる久間防衛相の発言が問題となっている。『朝日新聞』の6月30日付の記事によれば、問題の核心部分は「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」というものである。防衛相の真意はどうであれ、これがいかにも「言葉足らず」の発言であったことは明白である。言葉を「武器」としているはずの政治家が、原爆投下という国民の琴線に鋭く触れる主題に言及するのであれば、もっとはるかに委曲を尽くした説明をするべきであったであろう。
しかしながら、野党の一部に防衛相の罷免を求める動きが生じていることに対しては、私は率直にいって賛成できない。上記の記事によれば、「久間氏は『米国を恨むつもりはないが、勝ち戦と分かっていながら、原爆まで使う必要があったのかという思いが今でもしている』としつつ、『国際情勢とか戦後の占領状態からいくと、そういうこと(原爆投下)も選択肢としてはありうる』と語った」とのことである。
同記事はまた、「久間氏は講演後、朝日新聞の取材に対し、『核兵器の使用は許せないし、米国の原爆投下は今でも残念だということが発言の大前提だ。ただ日本が早く戦争を終わらせていれば、こうした悲劇が起こらなかったことも事実で、為政者がいかに賢明な判断をすることが大切かということを強調したかった』と発言の意図を説明した」とも伝えている。
こうした前後の発言をみれば、防衛相の真意が「原爆投下の是認」になかったことは明らかであるように思われる。また、当時の日本の為政者が「賢明な判断」をしなかったことが、原爆投下の「機会」と「根拠」を米国に与えてしまったことも、防衛相の指摘するとおりであろう。もちろん、ここに記した「機会」と「根拠」はあくまで米国の認識におけるものであり、そのような認識を日本人が共有する必要はまったくない。しかし、同時に、「いかなる状況であれ原爆投下は遺憾であった」と訴え続けることと、「無謀な戦争を開始するとともに降伏の時期も誤った」ことに自省を促すこととは、決して矛盾する事柄ではない。以上の意味で、防衛相の発言が「言葉足らず」であったことは事実であるとしても、全体の趣旨は必ずしも首肯できないものではなく、それを以て罷免の理由とするのはいささか飛躍しているように思われる。
もう一点、考慮を要するように思われることは、今回の発言は防衛相が大学における講演のなかで行なったものであるということである。この点に関連して思い出すのは、2002年5月、当時の安倍官房副長官が早稲田大学における講演のなかで、「自衛のための必要最小限度を超えない限り、核兵器であると、通常兵器であるとを問わず、これを保有することは、憲法の禁ずるところではない」と発言した一件である。この発言も物議を醸し、一部の批判を受けたが、それによって安倍氏が更迭されることはなかった。私の記憶が正しければ、この一件を伝える当時の報道番組のなかで、キャスターの筑紫哲也氏は、「これは大学での講演だ。大学における発言の自由はどのような立場の人にも保障されるべきである」という趣旨のコメントを行なっていた。このコメントは筑紫氏のジャーナリストとしての見識を示すものであり、私は深く印象づけられた。
安倍氏のケースと久間氏のケースは異なる点もあるであろうし、問題とされた発言の内容も別のものだが、「大学における講演のなかでの発言」という点は共通している。昨今の大学のキャンパスは以前と較べて社会に開かれたものに変りつつあり、政治家や官僚などが講演を行なう機会も増加している。こうした機会は、学生に多様な知的刺戟を与える意味では基本的に歓迎すべきものであり、そうした場での発言に対しては、他の場におけるそれより大きな「自由」が認められるべきではなかろうか。
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