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2013-09-17 09:34
経済学者の矜持-中国の環境汚染問題に思う
池尾 愛子
早稲田大学教授
明治期の経済学者、天野爲之(1859-1938)は日本における経済科学の創始者であり、最初の近代経済学者であったといえる。彼の書いたものを読むと、明治時代になって身分制度が廃止されて職業選択・経済活動の自由が制度化されてみると、知識や情報の格差が極端に大きく、それが所得や資産の甚大な格差につながっていたことがわかる。同じ頃のアメリカでは格差は一段と大きく、経済的に成功した人々が教育の普及のために学校等を設立したり、社会貢献するための基金創設に莫大な寄付をしていた。天野は経済雑誌や『勤倹貯蓄新論』(1901)などで米国の具体的事例を紹介して、日本でも同様の行為が普及することを願っていた。
また、天野は大学における商科の設立にも尽力した。その理由の一つは、経営者やビジネスリーダーになる可能性のある若者にこそ、経済倫理や経営倫理をしっかりと身につけてほしい、という思いがあったからである。そうした倫理の重要性については彼の『経済学研究法』(1890)で明確に述べられており、また明治20年の『商人の友』には彼の大阪での講演録に加えて、信用の重要性を謳う「商人の心得」も収録されている。これは、当時の経済界・商業界としても倫理や信用の問題を気に止めていたことをうかがわせる。江戸時代の身分制度の余波が残っており、一人でも一社でも社会倫理を犯す行為をとると、同業者や経済界にも信用の喪失が及ぶことがあったからである。しかし、大気汚染や産業廃棄物による環境汚染など公害問題になると、日本でクロースアップされるのは、20世紀後半、高度成長期後半であった。学者や市民が声を上げ、メディアとともに社会が抗議の声をあげたといえる。
こうした観点から中国の経済学者について一考すると、「後発国の利益を享受して、中国は経済成長を続けられる」と明言する経済学者はいても、環境汚染問題を解決しようと立ち上がる学者もメディア関係者もいないのだろうかと思わざるを得ない。中国は1979年の改革開放以降、徐々に経済成長の軌道を整えた後、急激な成長を実現してきたが、今日様々な矛盾を抱えるようにもなっている(注:この点については、日本国際フォーラム等3団体の共催する第92回外交円卓懇談会《7月26日》でも、ウィレム・ソーベック博士が指摘した)。中でも、環境汚染問題は深刻であるが、責任を問われるべきなのが国有・国営企業だということが解決を複雑にしている。政府が規制をかけようとしても、国営企業が政府の規制強化案に反対していることが伝えられている。報道によれば、国営の石油企業がガソリン製造工程から、大気汚染の元となる物質を除去するには費用がかかりすぎる、と開き直っているとのことである。市井の人々はもとより自分たちの健康も犠牲にしてまで、目先の利益を上げることに執着しているのである。もちろん、ガソリン価格の引上げも課題のままである。
経済的自由主義のある国々では、民間の経営リーダーたちは経済倫理に配慮するように社会の圧力を受ける。経営学はもちろん、経済学も経験科学としての側面を持ち続けており、社会の正当な圧力については、学問の中に取り入れていくものである。国連のグローバル・コンパクトという経済倫理イニシアティブも、そうした社会的圧力の一種である。天野のように経済倫理の重要性をきっぱり述べられる学者は中国にはいないのだろうか。いずれにせよ、ここでも後発国の利益は見つかるはずだと思うのである。
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