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2013-08-13 10:50
英霊に対して敬意を払う権利と義務
伊藤 将憲
日本国際フォーラム研究員
毎年、終戦記念日が近付くと、靖国神社参拝の是非が、広く国民の間で話題になる。お国のために尊い生命を捧げられた英霊に尊崇の念をもつのは当然であるというのが、国民の大部分の受け止め方だと思うが、靖国神社に対して特別の反感や反発を示す日本人も少なくない。生前は捨駒の如く赤紙一枚で徴兵し、無駄死を強いた国家が、彼らの死後、彼らを『英霊』だといっていまさら崇めても、それは都合が良過ぎるとか、靖国神社は軍国主義及び国家主義の象徴であり、その証拠に東条英機などのA級戦犯が合祀されていると、批判する意見もある。更には、特攻隊員に対して、国のために死んだのは馬鹿だ、とテレビ番組のインタビューで放言する者もいた。
そんな中、できるだけ中立的な立場の外国人が靖国神社をどう見ているのかを探してみたところ、当時駐日ローマ法王庁代表であり、上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル神父の言葉が見つかった。短いが、読んでみると、それが私には一番しっくりと来る、納得出来る内容だった。先の大戦後に日本を占領したGHQは、靖国神社を焼き払って、廃社しようとしていたそうだが、そのことに関して日本に駐在するキリスト教聖職者ビッテル神父に意見を求めたそうである。すると、ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ人に対して、敬意を払う権利と義務がある。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」と述べられたとのことである。(『正論』平成15年9月号、桑原聡、他参照)
この言葉を読み返してみて、、私も、志願兵、徴兵の別を問わず、国家と国民のために戦って亡くなった方々に、国民が敬意を表するのは当然のことである、と改めて思った。ビッテル神父は更に「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義を助長したというのなら、排すべきは国家神道という制度であって、靖国神社ではない。(中略)いかなる宗教を信仰する者であっても、国家のために死んだ者は、すべて靖国神社にその霊を祭られるべきである」と進言し、靖国神社を廃社の危機から救ったという。ビッテル神父の進言は、GHQの米軍人達の心をも揺さぶり、説得に成功したとのことである。
靖国神社には、第二次世界大戦を含め、近代以降の戦争で戦死された方々の英霊が祀られている。靖国神社に参拝し、英霊の御霊と向かい合うとき、日本人は過去の戦争を振り返り、「なぜこのような戦争が起き、先人達はどのように戦ったのか」を、そして、日本が敗けた第二次世界大戦に関しては、「どうすればこのような戦争を避けられたのか」を考える機会を与えられるのである。私の父の伯父たちの中にも、靖国神社に祭られている英霊が少なくとも2人いると聞いている。靖国神社が無ければ、日清戦争、日露戦争、日中戦争、そして第二次世界大戦で命を失った英霊たちの存在自体が忘れ去られてしまう危険がある。戦争と平和について考える場所があるからこそ、私たちは、万が一の有事に備えることが出来るのではないか。東アジア共同体や世界政府の構想は、残念ながらまだ理念、理想の段階に止まっている。現実には、外国軍が隙をついて侵略の機会を狙う島嶼防衛の状況があり、なによりも我が国の領土の一部は、近隣の複数の外国に占領されている。こうした防衛上の現実とビッテル神父の意見を併せ考えれば、靖国神社を論じるにあったっては包括的な検討こそが必要であり、もって英霊への敬意とともに国の在り方や厳しい国際情勢の中での国の存続について真剣な思考を行うことが求められているのではないだろうか。
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