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2012-05-28 22:47
石橋湛山の多面的評価に向けて
池尾 愛子
早稲田大学教授
去る5月19日、ある学会に招かれて特別セッション「テーマ:石橋湛山の人と哲学」にパネリストとして参加する機会を得た。湛山ブームなのであろうか、私にまで発表の機会が回ってきた。「ケインジアン蔵相」と自称したものの、石橋湛山は経済学者としてトレーニングを受けた訳ではなかったので、私にはなかなか扱い難い人物であった。しかし、あるアメリカ人経済学者の終戦後日本での占領期間中の活動に注目した研究を発表し、彼が『アメリカ経済雑誌』という専門誌に寄稿した論文で、当時の蔵相石橋の金融政策を批判し、その政策が蔵相石橋の追放につながったと説明していたことに触れたところ、日本でも私に扱える石橋の側面が徐々に注目されることになったようだ。
去る5月26日には、別のセミナーにおいて、1930年代から40年代前半のエネルギー政策、科学政策について、アメリカと日本の相違を確認するようなことになった。その際のアメリカ人歴史学者の発表にも、石橋湛山が登場した。石橋は「小日本主義者」で、植民地は経営コストがかかるので持たない方がよく、エネルギーなど天然資源は市場を通じて購入すればよいと考えていたと紹介された。換言すれば、石橋はアメリカ(や他の国々)と敵対することは避けるべきであると考えていたことが紹介されていた。他方で、アメリカでは核エネルギー研究が始まっており、これが日米でのエネルギー政策に対する感覚・意識の差を大きくするのに貢献しているようだと感じられた。
以上だけでも、石橋湛山の多元的価値観と、多面的な活動の一端が伝わってくると思う。石橋はさらに、1943年6月に設立された金融学会の創設メンバーの一人で、初代常任理事の一人である。それだけではない。同学会の前身にあたる金融制度研究会(1922年11月開始)以来の中心メンバーであり、雑誌『東洋経済新報』が事務局を務め続けている。研究会には、経済ジャーナリスト、(金融)経済学者、民間銀行、日本銀行の関係者達が参加していた。石橋湛山は、天野為之の『経済学綱要』や、米コロンビア大学のエドウィン・セリグマンの『経済原論』を読むことから経済学の勉強を始め、多くの書物だけではなく、イギリスの『エコノミスト』誌、日本のライバル誌『ダイヤモンド』や『エコノミスト』等も読んで、現実の経済的出来事を観察しながら『経済』学をやっていったといえそうである。天野為之は明治期に活躍した経済学者(「マクロ経済学者」と呼んでかまわない)であるが、著書『銀行論』もあり、銀行原理の講義もしている。銀行や銀行業(banking)、金融制度は明治期以来、重要な研究対象だったのである。明治期には書物と講義・研究会などの会合が経済知識の主要な「媒体」であったが、大正期にはそれらに雑誌など定期刊行物が加わっていたといえそうだ。
「金融制度研究会」は1932年7月に焦点を絞って「通貨制度研究会」となる。目的は、「内外諸般の経済事情を考察し、我国が将来採用すべき最も適切なる通貨制度及びそれに関係ある必要なる事項を研究する」ことであった。「通貨制度研究会」に参加した人々は『東洋経済新報』を媒体として関係が続き、1943年に、経済学者の高垣寅次郎氏の発案により「金融学会」創立の議がおこった。「金融学会」の40周年記念論集によれば、戦後の国際通貨制度に対するイギリスやアメリカの提案(ケインズやホワイトの原案)がそれらの公表前に日本銀行には伝わっていて、関係者達が刺激されて、「学会」創設に至ったことがわかる。会の目的は、「金融に関する理論及び政策の研究」と再び拡大された。1930年代のアメリカでも、国際通貨や金融について産官学による共同研究が大いに進展していたことも付記しておこう。
石橋湛山がアメリカ人達に注目されるようになるのは、彼が英文定期刊行誌『The Oriental Economist』(1934年創刊)を発行し始めてからである。彼が『日満産業構造論』(1940)を編集中のエリザベス・ブーディー・シュンペーターから経済資料の提供の依頼を受けて、太っ腹で応じ、またその寄稿者の一人G・C・アレンの訪日調査(1936年)を手伝ったことに鑑みると、アメリカ(やイギリス)側から大きな信頼を得ていたことは間違いない。アメリカ人達が日本や満州国についての研究にも精力的に取り組んでいたことは注目される。同書の日本語版には彼の序文がある。「昭和6年[1931]年の満州事件の発生及び金輸出再禁止以後、我が国が政治的に経済的に、英米等から常に目の敵にされてゐたことは周知の通りだ。それは彼等の誤解に基く所が多かつた。殊に彼等の我が国の経済事情に対する研究の疎漏乃至無知は甚だしかつた。昭和9[1934]年から、敢て言語上の面倒を忍び、オリエンタル・エコノミストを発行したのも、実は斯うした有様を捨て置けぬと感じたからであつた。」湛山の多面的評価にはグローバル対応も加えたいものである。
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