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2006-08-09 12:39
「井の中の鯨」のままでよいのだろうか
湯下 博之
杏林大学客員教授
しばらく前のことだが、或る外国人が日本のことを評して「井の中の鯨」と言ったという話を新聞で読んで、その表現のうまさに感心したことがある。その話の詳細は覚えていないが、この表現は勿論「井の中の蛙、大海を知らず」をもじったもので、要は、日本は大国になったにもかかわらず外の世界が見えていない、といった趣旨であったと思う。
そう言われると、「何を見当違いのことを言っているのか。日本は政治、経済、文化等あらゆる方面で世界で活躍しており、世界のことはよく知っている」と反論したくなるのは当然であろう。確かに、日本は、世界のあらゆる地域と深い関係を持っており、世界が見えていないということはあり得ないと言えよう。
ところが、である。アジアの近隣諸国5か国に勤務した私の経験から感じることは、日本もアジアの近隣諸国もお互いに相手のことがよく分かっていない。そして、日本については、特にいわゆるバブル景気がはじけて以後、国全体が非常に内向きになってしまっている。何かうまいもうけ口がないかといった眼では、まわりの国を見ることがあっても、世界の一員として、まわりの国々と一緒になって、自分達の将来を築いていこうという発想や行動が余り見られない。
しかも、今や世界はどんどん動いている。冷戦終結後の新しい国際秩序を模索する種々の動きもあるし、特にアジアでは、「東アジア共同体」構想まで打ち出されて、政治、経済、安全保障等広い範囲で次々と変化が生じている。中国やインドの台頭を踏まえて、自分達のアジアをどのようなものにすべきか、アジア中の国が頭を悩ましている、といってよいであろう。
そして、特に東南アジア諸国は、日本に対する期待が強い。自国に対する日本の経済協力といったことだけでなく、中国の台頭に対する対応とか、経済面で北米自由貿易地域(NAFTA)や欧州連合(EU)と対等にわたり合うといった面でも、自分達だけでは力が弱いので、是非日本に一緒になって動いて欲しいという希望を抱いている。
日本は「蛙」ではなく「鯨」であるから、井の中に閉じこもっていないで、是非出て来て欲しい、という訳である。しかし、日本は、こういった期待に応えていない。
日本は、伝統的に、対症療法は得意であるが、自らが積極的に好ましい枠組を構築するために役割を演ずるということは、不得手であるといわれる。日本が「蛙」であった時代はそれでよかったが、「鯨」になってもやはり同じというのでは、日本のためにも、世界の国々のためにもならない。
最近よく話題になる中国脅威論についても、日本は、単に日中間の問題として考えたり取り組んだりするのではなく、地域の問題、更には世界の問題として、東南アジア諸国やインド、米国、世界の主要国と、一緒に考え、行動することが必要である。また、この問題に限ったことではないが、国際関係というものは双方向のもので、相手がどうするかはこちらがどうするかによって違ってくるということを頭に置くことも大切である。
このように考えて来ると、「うーん、確かに日本は『井の中の鯨』かもなぁ」と思わざるを得ない。かつて、「第三の開国」ということが叫ばれたことがある。第一の開国は鎖国を終えて明治維新を迎えた時、第二の開国は第二次世界大戦が終わった時、そして、今や世界の荒波を乗り越えて行くための内からの開国といった考えであったかと思う。開国であるかどうかはともかく、日本はもっと外に目を向け、「鯨」にふさわしい考え方や行動をとって行かないと、後悔することになると懸念される。
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