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2011-06-05 18:35
震災後にどのような社会を建設すべきか
吉田 重信
china watcher 研究所主幹
東日本大震災の復興計画をめぐって、二つの考え方が争われている。問題の中心は、相変わらず生産と消費を競うような社会を再構築すると考えるか、あるいは、節約と省エネを通じてより生態系に適した社会を構築すると考えるか、である。この問題は「人類は、ポスト資本主義を構想しうるか」という問題に関連している。そもそも資本主義は、科学技術の発展をてこにして、シュムペーターが提唱するような、資本と労働力の創造的組み合わせによって、より高いレベルの生産とより多く消費つまり浪費を追及してきた。このシステムの結果、欲望の刺激、止めどなき軍拡、財政赤字、エログロ・ナンセンス、環境破壊、騒擾などの病理現象が発生している。資本主義の原理は欲望だからである。
他方、科学技術の論理からは、自己抑制とか知足(足るを知る)という考え方は出てこない。なぜなら、宇宙の広さと力は無限であり、人間は人間であるかぎり、無限の力を追求する性質をもっているからである。文明を発展させたのは、より大きな力を渇望する人間の性向である。アダムが神の意向に逆らって「知」のリンゴを食べて以来、ヒトと言う動物は「知の優越」への渇望を止めることができないでいる。
それに対して、野生動物は、生きていくうえで必要な量しか食べない。野生動物に肥満がいないのは、そのためであり、天敵たるほかの動物に襲われたとき、逃げ足が遅くて餌食にされるからである。その限りでは、地上の動物の中で、ヒトは野生動物より優秀にみえて、じつは下等なのかも知れない。生産力と消費を競う人間社会では、仏教や老荘思想のような自己抑制の哲学は、停滞、敗北、劣化、無気力、「負け犬」、「反文明」などのレッテルを貼られて、嫌われる。いまさら人類は「縄文時代の文明」に戻ることは不可能であると反対される。米国文明は「勝者の文明」であるのに対し、たとえば、「知足」社会であるブータン文明は、ある意味では「負け犬」文明であるとされる。
ソ連の「社会主義」が崩壊したあと、米国の歴史学者フランシス・.フクヤマは、著書『歴史の終わり』で、まるで勝ち誇ったかのように資本主義が歴史の最終段階であると主張した。しかし、本当に資本主義は人類の歴史の最終発展段階なのだろうか。それは「まだ終わりがない」ということなのか、「もはや終わり」という意味なのか、定かではない。米国文明が崩壊する日は来ないのであろうか?人類には、「今を盛り」の米国文明とともに、自己滅亡するよりほか将来がないのかもしれない。かつて強靭であった恐竜のような生物が、その強靭さと数の故に消滅したように。当面の病理の処方箋として、「ある程度の抑制」という考えがあり得るかも知れないが、これとて、いずれ崩壊までの一時しのぎ策にすぎないように思われる。日本は、震災後の目先の復興計画ではなく、価値観の転換を伴う、新しい復興のパラダイムを構築すべきときが来ているように思われる。
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