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2011-03-31 07:34
「自粛の嵐」は「共倒れ」の危険を招く
杉浦 正章
政治評論家
「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」と歌ったのは西行だ。芭蕉は奥の細道の旅に出る前年「さまざまのこと思い出す桜かな」と詠んだ。その奥の細道が未曾有の地震で大打撃を受けている。しかし大津波で全てがさらわれたあとに、一本の梅の木だけが奇跡的に残り、今満開の花をつけている町がある。住民が「勇気づけられます」と語っているのをテレビで見た。ところが「花見をするな」と都知事・石原慎太郎が“御触れ”を出した。「津波は天罰」と唾棄すべき暴言を吐いた石原の言うことなど、聞くつもりは毛頭ないが、この男はどうも加齢とともに、晩節を汚すような発言を繰り返すようになった。花見禁止の理由は「太平洋戦争の時は、みんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しかった」のだそうだ。冗談ではない。戦争という途端の苦しみの中でさえ、日本人は花見をしたのだ。幼かったが覚えている。機銃掃射を恐れながら、土手にござを敷いて、家族でおにぎりを食べたのだ。「連帯」はそこから生まれたのだ。花見の宴は、嵯峨天皇が812年に催したのが記録にある最初の例だと言われる。しかし恐らく日本人は、石器時代から桜を愛でる文化を持っていたに違いない。花の下で浮き立ち、元気になるのは日本人の遺伝子に組み込まれた習性だろう。
石原の思考形態は、文学などとはほど遠いと常々思っている。泥靴で、日本人の精神のありようにまで踏み込んで来るからだ。この場合の石原の発言が問題なのは、政治家としての判断能力にすら欠けるからでもある。いま日本をおおっている「自粛の嵐」をあおるような発言を、都知事たるものすべきではないのだ。過剰な自粛と、何をやっても不謹慎になるという空気が列島に蔓延して、消費を冷え込ませている。浅草の三社祭が早々と戦後初めて中止になったのに始まって、東京湾大華火祭も中止。選挙カー自粛や農作物の出荷自粛。驚いたのは入学式や入社式まで中止だという。この結果、都内の金券ショップでは鉄道乗車券や旅行券が大幅に下落している。これでは「地震と経済の共倒れだ」という悲鳴が兜町から上がっている。
さすがにニューヨーク・タイムズ紙が着目して、「日本は自粛という強迫観念にとらわれている」と報じた。「少しでもぜいたくにみえる活動は、すべて非難されるようになった」「もともと停滞していた日本経済に浸食効果をもたらし、倒産を急増させるだろう」と指摘している。もちろん「礼を失しない」という精神構造は日本人の「心」の中核をなしている。「恥」の精神もそうだ。だから世界で天災と同時に通常発生する略奪や暴動が一件もない。世界中が驚き、賞賛の声を上げている。「思いやり」の連帯が全国からの物資を被災地に届けようとしている。しかし過度な自粛は被災地にとって喜ばしいことなのだろうか。朝日新聞の「声」欄に「変わらない姿勢こそ安心呼ぶ」という投書があった。「被災地の方々も、一緒に悲しんでくれる人だけでなく、大きく笑って強いエネルギーをくれる人がほしいはず。変わらない姿が人を安心させるのだと思う」とある。たしかに避難所のテレビでお笑い芸人のアチャラカを老人たちが腹を抱えて笑っていた。「久しぶりに笑った」と語っていた。お笑い芸人ですら不謹慎ととらえられていない。
三社祭の中止もどうかと思う。そもそも祭りは「祀り」であって、「命・魂・霊・御霊(みたま)を慰める」慰霊の側面がある。祭りで元気が出れば消費も上がる。「江戸っ子よ、しっかりしろい!」と言いたい。花火大会も、大震災で疲弊した日本人の心を癒やす。史記に「大礼は小譲(しょうじょう)を辞せず」とある。大きな礼節が守られていれば、小さな礼など問題にしないでよいと言う意味だ。日本は世界が驚嘆する「大礼」の国だ。ささくれだった心を祭りや花火大会で癒やし、心に余裕を持たせて、常に被災地を思いやる。これが出来る国民なのだ。それでも心が痛むのなら、祭りも花火大会もチャリティーと密接に連動すれば良い。経済的に見ても、今回の大震災の被害額は阪神大震災の10兆円を大幅に上回り、20兆円を超すとみられている。加えて自粛などによる消費の冷え込みは4兆円に達するという試算もある。このままでは本当に「自粛不況」となりかねない。新聞・テレビはこの際自粛をあおるべきではない。むしろ「自粛を自粛する」キャンペーンを張るべき時だ。都知事の言うことなど聞く必要はさらさらない。
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