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2009-10-07 22:02
市民社会側に立つ「社会的企業」が必要
入山 映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
大きい政府、小さい政府をめぐる論議は、空前の財政赤字を抱えた日本では決着がついたかに見えた。しかし、亀井大臣の郵政分社化の見直し、さらには埋蔵金を使い切った後の民主党公約の実現などの話題を通じて、ふたたび大きな政府、非効率な巨大公営企業体の出現などが、見え隠れしているように思われる。しかし、公的サービスの供給主体については、「官か、民か」という二者択一の議論。換言すれば「市場原理主義か、公的セクターの肥大化か」という(ある意味では)不毛な非難合戦以外に、第三の途が考えられても良いのではないか。
これまでの公的サービスの提供を巡る伝統的な「3人のプレーヤー」論の中では、「政府」「市場」「市民社会すなわち民間非営利組織」という3者がそれぞれの特性を生かして社会福祉の増進に寄与する、というのが支配的な考え方であった。すなわち、税金という形で公的サービスに必要な原資を徴収し、それに均霑するのが政府機能であり、利益動機に基づいて「神の見えざる手」に基づいて財を生産するのが市場機能であり、利益配分を目的としない「世のため、人の為」の活動をするのが民間非営利組織の機能である。それぞれに棲み分けることによって、「最大多数の最大幸福」を実現しようというモデルである。
しかし、この三者の間の境界線がとみに曖昧なものになりつつある。例えば改正会社法は、残余財産配分と利益配分の双方を否定する組織は会社と認めないが、どちらか一方だけの禁止ならばさしつかえない、とした。利益動機、それも比較的短期における高い利益の創出とその配分を目的とする、という株式会社の伝統的な考え方に一石を投じている訳だ。この傾向をさらに追い求めてゆくと「利益配分よりは社会的福利向上が設立の主目的であり、利潤創出はその為の手段に過ぎない」という「社会的企業」の市民社会側からのアプローチと極めて共通性が強くなる。お役所が自らサービス提供主体になろうとすると、これはうまくゆかない。極めて非能率になり、生産性はほとんどゼロあるいはマイナスになるからだ。その実例は枚挙にいとまがないが、これには外郭団体によるサービス提供を含むのはいうまでもない。
それを避けようとして民間企業に入札をさせると、これまたご承知の事態が起る。さりとて分野ごとに「まる投げ」をすれば、市場原理主義のそしりとともに、弱者切り捨て現象が起りがちだ。ここに「社会的企業」が登場するとどうなるか。原理的にいって、弱者保護の政府機能と、効率重視の民間企業のいいとこどりをした供給主体が出現することになる。日本ではまだ規模が小さくて、夢物語にしか聞こえないこのシナリオだが、例えば南アジアでは、850万人を超える雇用創出に成功したブラクが、700億円を超える年間予算規模で活躍し、貧困層対象のマイクロ・クレディットで著名なグラミン銀行の貸し出し額は1兆円近い。もちろん南アジアと日本では「社会的企業」の性格も機能も異なるが、こんな事業体が公共サービスの第一線で活躍するようになったら、新しい日本が開けるように思う。それにしても、こんな組織の出現を不可能にしている公益法人制度改革の愚劣さと先見性のなさには、改めて嘆息させられる。
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