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2007-12-06 00:00
台湾問題と東アジアの地域秩序
小笠原高雪
山梨学院大学教授
最近、中国から来た複数の若手研究者と会話を交わす機会があった。一人は長期の滞日経験をもつ日本通であり、もう一人は今回が初めての来日ということであった。二人ともざっくばらんな人柄であり、中国社会の抱える問題点や日中関係の将来などのさまざまな事柄について、事前に期待していた以上に率直な会話をできたことは大層よかった。
話題の一つは台湾問題であった。私は、中国の人々と話をするとき、「台湾統一のためには武力行使も正当化されるという考え方は、世代を超えた中国人の考え方か?」と訊ねることにしており、今回も同じ質問をぶつけたところ、「もちろんそうだ」という答であった。公式回答としてはそういうことになるのであろうが、その点は彼らも全く変らなかった。
もとより、彼らは台湾への武力進攻を現実のオプションとして考えているわけではなく、「双方の誤算から武力紛争が起こる可能性」を懸念していた。裏を返せば、中国が武力行使の可能性を否定しないのは、一方的な独立宣言は可能だという「誤算」を台湾にさせないための担保である、ということであろう。このように、武力進攻の回避に優先順位を置く点において、彼らの考え方は国際社会の主流の考え方から逸脱してはいなかった。
しかし、私がどうにも違和感を禁じ得なかったのは、彼らが「台湾の住民も結局は中国人だ」という大前提を、決して譲ろうとしなかったことである。彼らによれば、「台湾人意識なるものは、政権維持のために対外的な緊張を望む陳水扁の政治的操作の所産にすぎない」のであり、「長く別の歩みをしてきた台湾の住民には、一時的な逸脱はありうるだろうが、もっと長いスパンでみれば、収まるところに収まるはずだ」ということになる。
今日の政治学では、「民族意識は人工的に作られるものであり、したがって可変的なものである」という考え方が一般的になっている。アカデミックな規定としてはおそらくそれが正しいのであろう。しかし、台湾問題をめぐる彼らの主張の仕方を聞いていると、意識の「可変性」の程度は多分に力関係の函数なのではないか、という思いに駆られてくる。力関係から見る限り、意識を再構成する必要性は中国側には大きくないからである。
台湾問題は何通りかの意味において東アジアの将来像を左右するが、「台湾問題への対処の仕方が中国の周辺諸国に対する態度を計る試金石となる」という視点もその一つであろう。台湾と他の諸国とでは立場が違う、という反論もありえようが、事態はそれほど単純だろうか。そのような角度から考えるとき、東アジアに多元的な秩序を形成するという課題の前途はなお遼遠であるかもしれない、と考えておくことも必要であろう。
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