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2025-03-14 00:00
(連載1)農地獲得は戦争の目的であった-農地法は売国法
倉西 雅子
政治学者
今日の日本国を見ておりますと、人類が、農地の獲得を目的としてしばしば戦争を行なってきた歴史が忘却されているように思えます。農業が主要な産業であった時代や地域では、農地の獲得と領土の拡大はほぼ同義でした。古くは、古代ローマ帝国が、征服した辺境の地を退役兵士に与えて耕作させることで、農地と領土を同時に広げています。また、広い視野からすれば、昨日の記事でも述べたように、大航海時代の幕開けと共に始まった西欧列強によるアジア・アフリカの植民地化も、交易商品としての特産物を独占的に生産させるための農地獲得が目的であったとも言えましょう。そして、それは遠い過去のお話ではなく、近現代史にありましても、むしろ主要な戦争要因の一つに数えることもできるのです。
第二次世界大戦もまた、農地獲得とは無縁ではありません。戦後、ドイツにあって禁書扱いされてきた『我が闘争』には、ヒトラーが、何故、イギリス型の金融・通商国家の路線に背を向けて、ロシアに向けての東方拡張政策を選んだのか、その理由が記されています。それは、ドイツを農業を産業の中心に据えた農業国家とするためであり、同目的を達成するためには、ドイツ人が入植すべき広大な農地を要したからです。‘生存圏’も、食料の自給自足を含む豊かな農業国家としてのドイツをイメージしての発想かも知れません(ただし、生存圏という言葉は、中世における東方植民活動の文脈から、1901年に、フリードリヒ・ラッツェルによって初めて使用された・・・)。
もちろん、同記述を鵜呑みにするわけにもいかず、農地獲得の目的は、真の目的をカモフラージュし、ドイツ国民を鼓舞するための‘もっともらしい理由’であったのかもしれません。それが口実に過ぎないとしても、農地の獲得は、ヒトラーがソ連邦にまで攻め入った主要な理由でもあるのです。農地獲得と戦争との関係は、日本国も無縁ではありません。満州事変から二.二六事件、日中戦争へと続く昭和の時代の流れの背景には、権藤成卿、橘孝三郎、加藤完治、那須皓等の農本主義者の影響が指摘されています。
実際に、満州事変後の1931年から戦争が終結する1945年までの凡そ14年間に亘って満州移民政策が実施され、多くの日本人が満州、内蒙古、華北の地に渡っています。同移民政策は、昭和恐慌の煽りで困窮化した農村の救済策として始まりましたが、対ソ国境を防備するための屯田兵の役割をも担っており、戦時にあっては満蒙開拓青少年義勇軍も結成されたのです。同開拓団の入植地の凡そ6割程度は開拓を要する荒蕪地ではなく、現地の中国人や朝鮮人から買い取ったとされていますので、売買による農地取得が大半を占めていたことになりましょう(仮に、安値での買取であれば、不満が残ったのでは?)。(つづく)
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