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2007-11-08 00:00
スペシャリストとジェネラリスト: 伊奈久喜氏の投稿をめぐって
小笠原高雪
山梨学院大学教授
10月5日付の伊奈久喜氏の投稿『「京論壇(ジン・フォーラム)」にみる建設的日中相互理解』は、示唆するところの多い投稿であった。それは日中対話を英語でおこなうことの利点を、具体例にもとづき考察したものであり、私の10月4日付の投稿『「東アジア諸国のあいだの相互理解」をめぐって』とも共鳴しあう部分があった。私の理解が正しければ、伊奈氏の議論の核心をなしているのは、次の記述であっただろう。
「中国人の知識人には、日本語を話すひと、そして英語を話すひとの2種類がある、と感じた。日本語のひとたちの視野には日中関係がある。当然ながら歴史問題が提起され、日米同盟には警戒的だ。英語のひとたちにとって日中関係は多くの関係のひとつであり、歴史問題も日米同盟も彼らの頭のなかでは相対化されている」
この記述は大筋において納得できるものだが、留保したい点もある。「日本語を話す知識人は歴史問題を重視し、日米同盟に警戒的だ」という指摘であるが、そのような現象の基底にあるのは現在の中国社会の一般的風潮なのではなかろうか。現在の中国社会においては、日本専門家であればあるほど、自分が単なる「親日派」ではなく、日本に迎合してはいないことを示す必要性を意識しやすいのではなかろうか。
中国であれ他の国々であれ、日本語を解する知識人には独自の存在意義があるはずである。そうした知識人のなかには、日本の歴史や文化の襞まで読み取り、日本人と深い相互理解をおこなう可能性を持つ人々も少なくないと思われる。視野の広さと狭さは最終的には個人の資質に帰着する問題であり、ジェネラリストは視野が広く、スペシャリストは視野が狭い、と一義的に決め付けることはできないであろう。
しかし、そうした留保をつけた上で、伊奈氏の議論は正しいものを含んでいると私は思う。すべての二国間関係は多国間関係のなかで議論されるべきであるし、その必要性は今日ますます大きくなっている。中国であれ他の国々であれ、日本が国際交流を行なう際にはジェネラリストとスペシャリストが同席し、それぞれの特性を活かしながら、努めて視野の広い議論を行なうことが重要であると思われる。
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