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2024-09-28 00:00
(連載2)皇族の存在と日本国民の精神性
倉西 雅子
政治学者
主人にとりましての理想的な下僕とは、主人には一切逆らわず、その命令通りに行動する従順なる従者です。その一方で、下僕の側も、自らに対する自己評価は著しく低く、常に主人のご機嫌を伺い、追従による自己保身ばかりを考えるようになります。言い換えますと、主人・従者関係にあっては、双方共が、一個の人格として自らの人間性や知力を磨いたり、社会全体を客観的に捉える能力を備える機会が失われ、精神的な成長が止まってしまうのです。さらには、皇室の権威を自らの私的な利益のために利用しようとする輩も現れることでしょう。
実際に、今日の皇族は、あたかも‘主人’のように奉られています。首都東京の中心地の広大な敷地内で多くの‘使用人’に囲まれながら住い、全国各地を訪問すれば、誰もが礼儀正しく深々と頭を下げるのですから。しかも、今般、遂に批判の声が噴出したもの、進学や就職等にあっても公的な特別待遇を受け、メディアも常に‘さま’付けの敬称をもって‘上位者’として報じますので、国民は、否が応でも‘世襲による特別の身分’が存在することを意識させられるのです(国民に対する一種の‘刷り込み’・・・)。
それでは、こうした皇族という特別の存在を目の当たりにして育つ日本国の子供達は、“超保守派”の人々が主張するように、世界に誇る皇室を頂く最も恵まれた幸せな子供達なのでしょうか。皇室がすっかり世俗化し、神話に由来する神聖性並びにそれに付随する伝統的な役割を失った今日、皇族の存在は、日本国民のメンタリティーを卑屈にこそすれ、伸びやかな精神を育むとは思えません(下僕メンタリティーの育成は、世界権力にとっても好都合・・・)。‘菊のカーテン’と相まって、国民の思考や理性の成長阻害要因となり、国民にとりましては‘菊の天井’ともなりかねないのです。
民主主義国家にあっては、もはや、為政者と国民との間には身分の違いはなく、一方的な支配・被支配の関係にあるわけでもありません(民主主義とは、本来、国民自治を意味する・・・)。それにも拘わらず、伝統的な権威としての天皇だけは、憲法上の役割をもってその特別の身分が認められてきたのですが、この‘特別の身分’は、一部の人々による単なる個人崇拝、あるいは、外部者による日本国民のコントロール手段に堕しつつあります。果たして、既に形骸化し、かつ、平等原則からも逸脱する現行制度を残すことが、未来の日本国民にとりまして望ましいことなのでしょうか。昨今、政治サイドでは、与野党共に皇位継承の安定性確保を課題としていますが、方向性が真逆なのではないかと思うのです。(おわり)
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