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2024-09-27 00:00
(連載1)皇族の存在と日本国民の精神性
倉西 雅子
政治学者
封建時代にありましては、主君に対する家臣の忠誠心は美徳として賞賛されていました。主君は家臣達の領地を保障し、報償や俸禄をも与える存在でしたので、家臣は、自らの命を擲ってでも主君を護るべきとされ、主君に誠心誠意奉仕する忠臣こそが家臣の鏡とされたのです。君主と領主との堅い絆は保護・被保護の関係、あるいは、非対称ながらも相互依存の上に成り立っており、家臣の忠誠心は、運命共同体とも言える同関係を精神面において支えていたこととなりましょう。
ヨーロッパの封建制度の場合、両者の封建契約を介しましたので、家臣のモラルという精神面よりも比較的法的義務の側面が強いのですが、こうした関係は、その成立前提としてギブ・アンドテイクの関係を見出すことができます。このことは、武士道や騎士道として現れてきた主君と家臣との間の麗しい主従関係は、その成立時期や範囲において、時代や地域によって限定されることを意味します。それでは、現代の日本国民に対して、皇族に対する封建的なモラルを求めることはできるのでしょうか。
“超保守系”の言論人による一般国民に対する不敬批判の多くは、上述した封建的なモラルへの違反を咎めるものです。その心理の根底には、戦後にあっても吉田茂が自らを臣と称したように、たとえ憲法上の実態とは違っていても、日本国の国家体制は、天皇を君主とする立憲君主体制であるとする意識があるのでしょう。このため、上述したモラルに照らせば、‘皇族の望みを叶えるのが臣民である国民の当然の務め’、あるいは、‘皇族に対する国民の批判は無礼極まりない’となり、分を弁えていない国民の側に非があることとになるのです。
ところが、この批判が成立するには、相互的な関係を要します。この成立要件を欠く場合には、両者の関係は、上の者が下の者に対して一方的な忠誠心や奉仕を求めるものとなり、主人と下僕、あるいは、主人と奴隷の関係に限りなく近づいてしまうのです。北朝鮮のような独裁体制に喩えれば、独裁者と国民との上下関係となり、国民は、何らの権利の保障も無しに、常に前者を崇め、忠誠心を示さなければならないという不条理な状態となるのです。日本国の現状は北朝鮮ほどではありませんが、天皇が神的な霊力による国家護持の役割をもはや果たせない以上(皇族に至っては意味不明の存在に・・・)、国民に封建的なモラルを美徳として求めることは、今や下僕のメンタリティー、奴隷の‘行動規範’を持つように訴えるに等しくなっているのです。(つづく)
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