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2007-10-22 00:00
記憶としての「冷戦」
佐島直子
専修大学教授
ロバート・デ・ニーロ、13年ぶりの監督作「グッド・シェパード」が公開された(2007年10月20日)。第二次世界大戦前夜に始まる米中央情報局(CIA)の裏面史をある諜報部員とその家族の三世代に及ぶ愛憎を通して描いた話題作である。デ・ニーロは、冷戦時代という設定に何よりひきつけられたという。10月19日付の『朝日新聞』でも、「映画で現実に物申すつもりはない。あの時代がどんなものだったのかをきちんと伝えたかっただけだ」と告白している。
あの時代がどんなものだったか、デ・ニーロならずとも、きちんと伝えておきたいと思う。実際、「冷戦」は急速に遠ざかっている。学生達に、「冷戦」という言葉を何気なく使って、きょとんとされた経験は一度や二度ではない。「冷戦」は、国際関係や安全保障を履修する学生でさえ、「学ばなければ知らない言葉」になった。既に平成生まれが大学生になろうか、という時代である。彼らに、どの年代が「冷戦」で、どの年代がそうでないか、ピンとこないのもいたしかたない。おそらく彼らは過去の『007』シリーズを見てもわからないことだらけだろう。ヒッチコックの『バルカン超特急』や『引き裂かれたカーテン』も予備知識なしには「ちんぷんかんぷん」だろう。
一方、1955年生まれの筆者は、「冷戦」の転変とともに成長してきたといっても過言ではない。防衛庁(現防衛省)に入ったのは1980年代初頭で、「新冷戦」と呼ばれた新たな緊張の時代である。2001年に現職に移るまで防衛官僚として過ごした約20年は、「冷戦」が深化し、「冷戦」が終焉し、「ポスト冷戦」が進行しつつ、「冷戦」が残滓する時代だった。その記憶は未だ鮮やかで、時に生々しい。その一端は、拙著『誰も知らない防衛庁』(角川書店、2001年)に記したが、もちろん全てではない。
筆者のような職歴にあった者でなくとも、我々世代の人生の軌跡は「冷戦」という背景なしには描かれまい。第二次世界大戦の終結から60年を過ぎ、「戦争の記憶」を語り継ごうという試みがメディアで散見している。しかし、戦火を見ることなく終焉した「冷戦の記憶」を語り継ぐことは、「戦争の記憶」を語り継ぐこと以上に難しそうである
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