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2022-12-03 00:00
ペルシャ語の日本経済思想史
池尾 愛子
早稲田大学教授
イラン人経済学者モハマド・ナギザデ氏に、日本国内でお会いして話す機会があった。彼は2006年に『日本の経済思想及び発展の起源:継続と変革』と題する全2巻の書籍をペルシャ語で出版されていたのである。厚さが2.5センチと3センチあり、これだけの日本経済思想の通史を一人で書かれていたのは驚きである。資料収集のため、10年掛かったとのことである。関係者たちの熱心な努力のおかげで連絡を取り、英文要旨を参照しながら、その著書について話を伺うことができたので本e論壇で紹介しておきたい。ローマ字での和文書誌情報にペルシャ語での解説を添えられたとのことである。ナギサデ氏はテヘラン生まれで、京都大学大学院で博士号を取得後、千葉大学で教鞭をとり、1987年に明治学院大学に移籍して、同書を出版されたのであった。親しかった日本人経済学者として、都留重人、伊東光晴、宮崎義一、竹内啓、西川潤ほかをあげられた。私が英語で書いたものは参照されたようで、話は私が書いていなかったことに偏ることはお断りしておく。
第1章は「徳川時代の経済思想」である。同書に肖像画がある荻生徂徠、石田梅岩、三浦梅園、本居宣長、佐藤信淵以外にも、伊藤仁斎、山片蟠桃、海保青陵、本田利明、新井白石、二宮尊徳の名前が挙がってきた。ナギザデ氏の表現によれば、徳川時代、米については、バザールを通じて価格が決まる、バザールメカニズムが機能していた。氏によれば、日本では、江戸時代より、生産の増加、輸入の対価を生み出す輸出の増加・金銀の輸出削減、雇用と社会の安定性、現場主義が重要であった。江戸時代には、中国儒教の影響もあったが、中国儒教から離れようとする古学の流れも注目されるとのことである。各章のなかで、徳川時代の章に著者の力が最も込められているように感じられる。丸山眞男による日本研究にも言及されている。第2章は「明治時代の経済思想と第一次大戦」である。啓蒙、教育・政治改革、福沢諭吉、田口卯吉が注目された。本章の要点は次の通りである。英仏流自由主義の影響は大きかったが、それに対抗するように、歴史主義・民族主義に基礎をおくドイツ流の経済政策への関心が高まり、社会政策学会が登場した。明治時代以降も日本は貿易に敏感であり、それは現代まで続いている。
第3章は「戦間期のマルクス主義」で、金井延(のぶる)によりルソーが日本に紹介され、日本のマルクス経済学や社会政策学に影響を及ぼしてきたとされる。河上肇、講座派と労農派の日本資本主義論争が注目された。第4章は「戦間期の経済思想」で、河上と福田徳三の論争、高橋亀吉、高田保馬、高島善哉、高橋亀吉が注目された。マルクス研究が抑圧され、代わりにアダム・スミス研究が行われたことも注目された。実は、(キリスト教を帯びた)スミスがマルクスの代わりに研究されたという日本の特殊事情を、英語圏や西洋の経済学者や経済思想家たちに理解してもらうことは不可能だと感じている。しかし、ペルシャ語ではこうした事情が理解できるようである。金解禁論争、軍国主義、経済統制論など幅広く論じられたとのことである。
第5章は「第二次大戦後の経済思想」で、経済再建期、高度成長期のマルクス経済学が論じられたようである。ナギザデ氏は「日本の経済学の多数派は1980年代半ばまで、マルクス経済学者とそのシンパで影響力があった」と主張する(学会員数の変化によれば、マルクス経済学者が多数派だったのは1960年代半ばまでである)。宇野弘蔵、向坂逸郎、大内兵衛、有沢広巳、山田盛太郎、野呂栄太郎、大河内一男、大塚久雄は本章を含め幾つかの諸章で取り上げられたようである。第6章は「高度経済成長から低成長へ」で、非マルクス経済学者の観点から高度成長期の経済思想と経済発展が扱われたようだ。官庁エコノミストの下村治が、日本の高度成長に貢献した最も重要な理論家として注目された。中山伊知郎、赤松要、篠原三代平、金森久雄、宮崎義一、(10月31日に亡くなったばかりの)小宮隆太郎が注目された。
第7章は「1970年代と1980年代の経済思想」といえる。氏が注目したように、マルクス理論と新古典派理論の両方への数理的接近法が目立ち始めた時期である。環境問題への意識の高まり、経済成長反対論、石油危機とその後の経済思想が取り上げられた。ナギザデ氏自身の来日時期と重なり、日本の大学院で計量経済学などを学んだ氏には、日常生活と経済理論・計量経済学の間にギャップがあると感じられたという。宇沢弘文、鈴木淑夫、新保生二、宮本憲一、今井賢一、玉野井芳郎が取り上げられた。第8章は「1990年代以降の経済思想」である。佐和隆光の「経済学は文化的なものである」との主張が注目された。「かねあまり」、「日本経済の低迷」、「(バブル時期の)消費社会への批判」、「貯蓄する社会」などをカギに経済思想を語られたようだ。
ナギザデ氏の同書でのメッセージは「江戸時代から学ぼう」である。日本経済の基礎が江戸時代に築かれていたからであるとされる。氏の来日のきっかけは、日本が石油ショックを受けてどうなるかを確かめるためで、氏の父の助言もあったとのことである。日本経済の発展は海外の研究者たちから注目されており、明治維新後の近代化・産業化および敗戦後の経済再建と経済成長の2つの時期が注目されてきている。石油ショックは日本だけではなく多くの国々にマイナスかプラスかだけにとどまらない構造的な変化をもたらしたので、その影響は産油国と日本の関係、宗教の相違をも考慮に入れて、地球規模で考察しなければならないであろう。ナギザデ氏は、『日本の高度経済成長6000日』と題する本をペルシャ語で最近出版されたとのことで、見本をみせていただけた。氏はテヘラン大学に日本研究学科が設置されるにあたっても貢献されたそうである。氏の『日本の経済思想及び発展の起源:継続と変革』は、イランの2008年「年の書」に選ばれたとのことである。
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