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2022-10-05 00:00
(連載2)河野デジタル相「黙祷」通達の問題点
倉西 雅子
政治学者
第3に、同通達には、黙祷という心に関わる行為の要請だけに、否が応でも国民の内面に踏み込みます。憲法では内面の自由が保障されているため、河野デジタル相は、 ‘黙祷せよ’ではなく、強制力も罰則も伴わない ‘黙祷するように求める’という‘お願い’の表現としたのでしょう。
しかしながら、通達での要請に対して、どれだけの職員がこれを拒否、あるいは、無視できるのでしょうか。大臣からの通達となれば、職場全体に強い同調圧力がかかりますし、同僚の皆が黙祷している中で、一人だけ仕事を続けることは難しいはずです。しかも、厳密に言えば、安部元首相は、国会議員の一人ではあっても、逝去時にデジタル庁との間には公的な関係はありませんでした。民間人のみならず、公務員であるデジタル庁の職員に対しても黙祷を求めることに疑義が呈されてもおかしくはないのです。ここに、政治における官民あるいは公私の区別の曖昧性という全体主義的な要素が見えるのです。
第4に、内面の自由に関連して指摘し得るのが、デジタルというテクノロジーに対する河野デジタル相の意識です。メディア等が描くデジタル社会とは、人々がITやAIといった先端技術を使いこなすことで、自らの物理的な限界をも超えて自由な空間を享受する未来像です。メタバースが提供する仮想空間であれば、一人で部屋に閉じこもっていても全世界を周遊できますし、宇宙旅行も‘体験’できます。このため、デジタル化=自由化と見なされがちですが、今般の通達は、同デジタル相が人々の内面に干渉することに対して躊躇していないことを示しています。理系頭脳を有するIT関連の人々は、文系の河野デジタル相とは逆に、何者・何事にも縛られることを嫌う ‘真の自由人’が多いので、大臣との認識のギャップに驚いたかもしれません。
今回の黙祷に関する通知は全体主義的で強権的といえるにもかかわらず、メディアは何故、日本国の民主主義や国民の自由に退行をもたらしかねない今回の問題を大きく取り上げないのでしょうか。河野デジタル相の黙祷通達は、全体主義的な試みと’デジタル社会’が親和的になりうる危険性を、図らずも日本国民に知らしめているように思えるのです。(おわり)
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