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2022-06-07 00:00
(連載1)シュレーダー元首相はなぜ特権を剥奪されたのか
宇田川 敬介
作家・ジャーナリスト
AFPBB Newsによると5月19日、ドイツ連邦議会がロシアのエネルギー大手との関係断絶を拒否するゲアハルト・シュレーダー元首相(78)から、特権として与えられていた事務所を剥奪したということだ。ドイツのシュレーダー元首相が親露的な政治家であることは有名だが、ドイツで何が起きているのだろうか。これについては、ドイツとロシアの切っても切れない歴史的な関係を紐解く必要がある。
第二次世界大戦後、ヤルタ協定などの取り決めによってドイツの処分が行われた。連合国はポーランドを再建設するに当たって、ドイツ領東部をポーランド領とし、オーデル・ナイセ線を暫定的な国境とすることにした。また飛び地となっていた東プロイセン地方はポーランドとソビエト連邦が分割した。このため、ドイツ第三帝国の成れの果ては、かつてのポーランド分割以来、長く領有していた東部地域と、ドイツ帝国統一の立役者であるプロイセンを完全に失った。ドイツには中央政府が存在しないとされ(ベルリン宣言)、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4ヶ国によって分割占領され、更に首都ベルリン市内も4ヶ国で分割された。
やがて「冷戦」と呼ばれる対立状態になると、ドイツの占領統治にも大きな影響を与えた。1948年、米英仏占領地域(トライゾーン)が独自に通貨改革を行うと、対抗したソ連がベルリンの米英仏占領地区へ繋がる陸路を完全に遮断(ベルリン封鎖)。アメリカはこれに対して食料物資を空輸することで封鎖を崩し、ソ連もすぐに封鎖を解いたが、両者の溝は埋まることはなかった。1949年5月6日、米英仏占領地域に自由主義・資本主義のドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府が成立し(主権回復は1955年5月)、これを受けて10月7日には、ソ連占領地区に共産主義のドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツ国家と民族は東西に分断された。冷戦が終結に向かい、1989年の東欧革命によって東ドイツも変容し、1989年11月9日にはベルリンの壁が崩壊した。そして、1990年10月3日には東ドイツが自壊し、東ドイツ地域の諸州がドイツ連邦共和国(西ドイツ)に編入される形で再統一が達成された。統一後の最大の懸案は、旧東ドイツ地域の北大西洋条約機構(NATO)加盟であったが、ソ連が譲歩する形でこれも認められた。そして、1991年12月25日には、冷戦の盟主国の一つであるソビエト連邦が崩壊し、その大部分がロシア連邦となった。1992年にはマーストリヒト条約が発効して欧州連合(EU)が発足、ドイツは欧州の中核国として存在感を増すこととなった。
さて、「ゲアハルト・シュレーダー」という人物は、このような激動のドイツ史の中にあって、第二次世界大戦中の1944年ナチス政権下のドイツ国のリッペ自由州(現在はノルトライン=ヴェストファーレン州の一部)のモッセンベルク(現在のブロムベルク)の労働者階級の一家に生まれている。1966年にゲッティンゲン大学に入学し法学を専攻。後に弁護士となる。弁護士としては、ドイツ赤軍テロリストの弁護を担当したこともある。1963年、ドイツ社会民主党(SPD)に入党。1978年にSPDの下部組織・社会主義青年団(ユーゾー)の連邦代表に就任し、1980年までその役職を務める。旧西ドイツ側にありながら、生粋の「リベラリスト」であるということがよくわかる。(つづく)
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