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2022-03-18 00:00
中国の大学のオンライン授業
池尾 愛子
早稲田大学教授
冬の北京オリンピックが終わったとたん、中国の大学の教授から「新学期の授業が今日から始まった。ついては、授業を2コマ(1コマ3時間)担当してほしい」と依頼が来た。昨年末にオンライン授業の可能性について打診があり、快諾はしていた。オリンピック期間中、学校の授業は休みだったようだ。すぐにできるものを2つ用意した。先週は「天野為之(1861-1938)と日本の近代化」、今週は「赤松要(1896-1974)の雁行形態論と技術進歩・技術移転」について、授業の前半に講義して、後半に出席者から質疑を受けた。
天野為之については、中国の他大学で話したことはあったが、今回の大学では初めて取り上げた。それにもかかわらず、天野は明治・大正期に、先駆的・先見の明のある経済学者、経済ジャーナリスト、教育者として大活躍したとして、講義では「なぜ天野は先見の明をもてたのか?」「天野の先駆性はどこから来たのか?」を探求した。玄界灘に臨み、韓半島を意識する唐津の地政学的位置、初代長崎奉行から肥前名護屋城主を兼務し唐津城を築いた寺沢氏の唐津藩政、続く唐津城主たちの長崎監務の任などに注目した。唐津では鎖国中も諸外国を意識し、民間塾教育(学者たちに仕事が提供された)が盛んになって幕末・維新を迎えたのであった。天野は唐津で高橋是清から英語教育を受け、設立2年目の東京大学に入学し、フェノロサから経済学を学んだ。
天野が生まれた1861年には、対馬の芋崎がロシア艦(太平洋艦隊)に6ヶ月余り占拠される事件があった。徳川幕府と対馬藩の抗議だけでは退去させることはできず、駐日イギリス公使らの介入によりロシア艦を対馬から去らせることができた。この事件は日本の海防を考える識者たちにとって重大事件であり、ロシアの脅威が刻み付けられた。そしてこの頃、外国人たちが来日したとき、日本で外国人の生命が護れるか否かが争点の一つになってゆく。政治家志望であった天野為之の心には国防力の強化、技術水準の向上、兵力の向上が大きな課題であることを刻み付け、『徴兵論』(1884年)の執筆につながったと推測できる。
さらに天野は維新後に、元外国御用係老中の小笠原長行(ながみち、唐津出身)から、日本に派遣されていた欧米の外交官への対応や、彼らの軍隊・部隊のようすを臨場感もって聴いていたと推測される。イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4ヶ国が連合してと長州藩を攻撃した下関戦争(1863年と1864年)にみられるように、日本と条約を結んだ国々は軍隊・部隊を派遣しており、彼らの間で連絡を取り合って行動していた。彼らは4ヶ国人への砲撃・殺傷に対する報復を除いては、基本的に中立姿勢をとることにしていたようだ。1868~9年に日本国内で戊辰戦争が繰り広げられている間、4ヶ国は軍事力を誇示して、新政府には徳川幕府が締結した不平等条約を引き継ぐことなどを条件にして、事態の推移を見守っていたようだ。この時、4ヶ国は日本に対して「貿易しよう」という姿勢であったといえそうだ。確かに清国に対してはそうではなかったといわざるをない。日英同盟の締結(1902年、第2回 1905年)はなかなか信じ難いようだ。
天野によれば、政府は普通教育、(望ましくは)国際商業に関する教育を提供した後は、できる限り介入しない方がよい、自由放任がよいのであった。天野は民間人の経済活動に対して極めて楽観的で、教育を受けた人は失敗から学ぶものと考えていた。そのうえで、政府の重要な役割は発明を促すことであり、そのために、国内の特許制度の確立、国際的専売特許条約への加盟、著作権制度の確立を提唱した。彼は、商品の品質保証のために商標制度の確立を提唱し、さらに公衆衛生や安全の確保のための規制や、工業製品の規格の樹立、国際的に標準的な度量衡の採用や国際金本位制の導入を提唱した。「資本主義」という言葉を天野は使わなかったが、新しい経済が機能するためには細かい規制や規格が必要なことを認識して提唱していた。これをもって、「政策が経済発展をもたらす」と言えるのかどうか。発展のためには市場など経済制度の構築が必要だとする論者にはつながりそうである。
雁行形態論(Fluggänsemodell)は、独語のウィキペディアで「V字型になって飛行する雁」の挿絵と共に紹介され、アジア開発銀行『アジア開発史』(2020)の第9章「貿易・外国直接投資・経済開放」ボックス9.2「雁行的発展からグローバル・バリューチェーンへ」でも解説されている。それゆえ、赤松要自身の研究をとりあげ、そして技術進歩・技術移転を絡めて現代的に講義した。技術(technology)、技能(skill)の用語法について英語と日本語でズレが生じていること、発明(invention)と区別される革新(innovation)はJ.A.シュンペーターの『経済発展の理論』(独語1912年、改訂独語版1926年)の英訳(1934年)に初めて登場することに注意を促した。シュンペーターの同書には『発明』が登場しないこと、彼には来日経験があり、アメリカでの配偶者は日本研究も行っており、日本人にとって親しみのあるヨーロッパ出身者だったことも述べた。
雁行形態論は、中国では、発展の序列を示す理論として受容されているようだ。雁行形態論の理解に2-3パタンがあるが、技術の進歩や移転に光があたっていれば大丈夫だと思う。このパタンが広まったのは、エコノミストの大来佐武郎(1914―93)が1985年にソウルで開催された第4回太平洋経済協力会議(PECC)での会長講演の際に、当時のアジア太平洋地域のダイナミズムの源泉として雁行型経済発展を紹介したのがきっかけではないかと思われる。遡って、赤松自身は工業製品の輸入、国内生産、輸出の通時的変化について、データを収集し、工場からの聞取り調査を実施して、統計的に分析していたことは知られていないようだ。それゆえ、赤松が黒板に3つの山型カーブを描いている1970年代の講演写真を示したのはよかったようである。
『アジア開発史』では、技術と技術進歩の重要性が強調されている。もちろん政府の役割の重要性も強調されている。政府は経済発展をもたらすことができるのか。経済発展のためには、政治も社会も安定していなければならないだろう。「政府は経済発展をもたらすことができる」のを示したのは、中国である。では、政府は技術進歩に貢献できるのか。アメリカでは、ソ連の無人人工衛星スプートニクの打上げ成功にショックを受け(スプートニク・ショック)、現在のインターネットにつながる情報通信網の研究が開始された例がある。『アジア開発史』において、電気通信と情報通信技術は第8章「インフラ開発」で検討され、スプートニクには触れられたが、インターネット開発史は詳論されていない。インターネットの例をみると、あまり明快な議論はできなくなるかもしれない。それでも一般論は可能であろう。政府関係者は新しい技術について勉強することはできる。新しい技術の普及には標準づくりが伴うが、これも民間が担うといわれている。政府は新技術を生み出すことはできるのか。政策イノベーション(革新)は政府によって実施されてよい。しかし、技術にかかわる発明やイノベーションを担うのは民間人ではないか。これは経済安全保障問題にまでつながる問題ではなさそうだと感じた。いかがであろうか。
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