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2021-07-07 00:00
(連載1)日露平和条約交渉の視角と死角:北方領土問題とソ連崩壊
梶浦 篤
研究者
日露平和条約交渉を視角を変えてみてみると、思わぬ死角のあることに気付かされる。そこで、北方領土とソ連崩壊の因果関係を見ていくことにする。
1.大西洋憲章を守らなかったソ連――ソ連圏に根付いた「親米・反ソ」
「ソ連は北方領土を返還しなかったから崩壊した」と言ったら、大げさに聞こえるだろうか。
ところが、第二次世界大戦において、ソ連に「北方領土」を奪われたのは、日本だけではないのである。モンゴル、ルーマニアも、それぞれ、ウリャンハイ、ベッサラビア・北ブコヴィナを、ソ連に奪われている。フィンランドについては、「北方領土」の漁夫半島のみならず、「東方領土」のカレリアの一部も、ソ連に奪われているのである。ちなみに、漁夫半島を失うことは豊かな漁場でもある北極海を失うことでもある。「東方領土」と言えば、ドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキアも、それぞれ、東プロイセン、カーゾン線以東、東ルテニア(カルパ-ト・ウクライナ)をソ連に奪われている。ポーランド、チェコスロヴァキアは、ソ連と同じ連合国である。さらに、エストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国については、ソ連に全土を併合されている。
私が東西冷戦期にフィンランドに行った時、地元の人から最初に聞かされたのは、「カレリア、ガッガッガ!」であった。クマが爪を立てて土地を削る手ぶりを添えて。それを聞いていた周りの人々がゲラゲラ笑っていたのも、記憶にある。フィンランド人に愛されている民謡「サッキャルヴェン・ポルッカ」の歌詞に「サッキャルヴィは失われても、ポルッカは残されたのだから!」という歌詞がある。カレリア地方のサッキャルヴィはソ連に併合され、ソ連は別の名前で呼んでいる。このような地名の変更は、同様の運命に遭わされた多くの地で行われた。一般論として、どの民族・国家にかかわらず、侵略者はしばしば地名を自国語風に変えるのである。他の民族・国家がそれまでに築き上げてきた歴史を抹消し、侵略の事実を隠蔽するために。
領土の奪取だけでは安心できなかったソ連は、さらに、1948年には、フィンランドに対して、「フィン・ソ友好条約」を強要し、ソ連がフィンランド経由で攻撃を受けた場合は軍事的に抵抗する義務を負わせた。いわゆる「フィンランド化」というものである。このことは、一般に、ソ連がフィンランドから大きな利益を持ち去ったというように解釈されている。しかし、実際には、世界から、フィンランドは深い同情を得、ソ連は強い反感を、さらには場合によっては軽蔑を受けたのではなかろうか。万が一、ソ連を攻撃しようと思った国ないし国々があったとしても、その国またはその国々はフィンランドを苦境に立たせたくないがゆえにフィンランドを避けるだけであろうし、万が一、フィンランドを経由したとしても、フィンランドがソ連の侵略に対抗して敢然と戦ったのに比べて、どれほどの熱意をもって、ソ連と共に戦ったであろうか。さらに言えば、その国または国々は、フィンランドに対して、カレリアと漁夫半島の回復を秘かに提示するであろう。従って、フィンランドにとって屈辱的なこの条約は、実際にはフィンランドを利して、ソ連の方を利してはいなかったことになるのである。心を掴まなければ、駄目である。
中国は、清朝末期に「北方領土」の黒竜江北岸・外興安嶺以南と沿海州をロシア帝国に奪われている。さらに、ソ連崩壊後もロシアは、ジョージアの「北方領土」である南オセチアとアブハジア、ルーマニアの「北方領土」モルドヴァの、これまた「北方領土」である沿ドニエストルを占領し、ウクライナの「南方領土」であるクリミアを併合し、さらにはウクライナの「東方領土」を占領している。
ソ連は第二次世界大戦開始前には、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、トルコ、イラン、アフガニスタン、中国、モンゴル、満州国、日本の14か国と陸の国境を接していたが、大戦によってそのうち3か国を併合し、6か国から領土を奪い、1か国を壊滅させ、中国に返還されるべき2つの鉄道と2つの港における特権を認めさせたのである。このほか、イランの北部を一時的に占領し、トルコに対しても領土や、海峡に関する特権を要求した。隣国ではなかったが、リトアニアを併合することによって接することとなったドイツ領も奪った。戦後、ソ連は新たに、ノルウェー、ハンガリー、北朝鮮と陸の国境を持つこととなった。これらの国々は、ノルウェーの領海問題を除いて、ソ連との領土問題は生じていない。しかし、これらの国々は、ソ連やロシア帝国が、フィンランド、チェコスロヴァキア、中国から、それぞれ領土を奪うことによって、隣国となったということは、留意されるべきである。さらにソ連は、ドイツ東部、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアに対して、自由を奪って社会主義を押付け、モンゴルの「現状維持」を確保し、これらの諸国をいわゆる「衛星国」とし、さらには中国、北朝鮮、北ヴェトナムを同盟国とし、フィンランドも実質的に勢力下に収めて、広大なソ連圏を獲得した。
ソ連も、崩壊後のロシアも、ソ連は第二次世界大戦で多大の犠牲者を強いられたのだから、その結果として領土を得るのは当然だという論法を採ってきた。しかし、一説によれば、中国こそが、第二次世界大戦で最も多くの犠牲者数を出したとされており、もし中国もそのような論法を採ったとしたならば、ソ連が味方のポーランドからも領土を奪ったように、中国も味方のソ連から領土を奪って良いということになろう。米国にも、「血による正当化(ブラッド・ラショナーレ)」といった、似たような考え方があり、沖縄に関してもそのような主張も見られないわけではなかったが、実行には至らなかった。もっとも、「血による正当化」については、沖縄戦では犠牲者は日本側が約18万8000人、米国側が1万2520人と、日本側に遥かに多くの犠牲者が出たのであるから、日米関係・沖縄研究者の明田川融氏によれば、沖縄統治は日本側の方に正当性があるともされている。
いずれにせよ、第二次世界大戦において、あからさまに領土の拡張を行った国は、ソ連だけであった。連合国は大戦の初期に、戦後処理は、大国と小国、戦勝国と敗戦国を平等に扱い、「領土不拡大の原則」「民族自決の原則」に基づいて行うという方針を、米英による大西洋憲章と、これに賛意を示したソ連を含む連合国26か国による連合国共同宣言において、確認している。そして、実際に、ソ連を除く連合国はこれらの両原則をおおかた、遵守しているのである。もっとも、カーゾン線や、カルパート・ウクライナといった、ソ連の要求がこの両原則に違反したとは言いにくい場合も全くないわけではなく、またソ連以外の国々が両原則に全く違反しなかったわけではない。しかし、ソ連は突出して、両原則を守らなかったと言える。
また、日本に対しては中立条約、フィンランドとポーランド、エストニア、ラトヴィアに対しては不可侵条約を破って侵略したということも、忘れてはならない。ちなみに、国際連盟を除名させられた国はソ連のみであるが、その理由はフィンランドを侵略したということである。
それでは、第二次世界大戦で、「領土不拡大の原則」「民族自決の原則」にあからさまに反して、唯一広大な領土・勢力範囲の拡大を強行したソ連の安全保障は、強固となったのであろうか。これらの両原則は、戦争には領土の割譲が当たり前であった過去の時代の、領土を奪われた方が不満を抱き、それが新たな戦争の原因になったという愚行の繰り返しに人類が気付きだしたことに因っている。ソ連に占領されソ連圏に組込まれ、国家や、領土、自由を奪われた近隣諸国民が、ソ連に対して反感、不信、さらには軽蔑の念までも抱いたであろうことは、容易に想像できる。これらの人々は、ソ連によって支えられた親ソ政権とその支持者たちという少数派を除いて、その多くは反ソ、そして親米となってしまったのである。ソ連が自由化を阻止したハンガリー事件、チェコ事件も、それに輪をかけた。今となっては、ソ連圏に組込まれソ連の圧政を受け、ソ連の「衛星国」と呼ばれた国々の人々が、自国を「東欧」と呼ばれるのをしばしば忌避するのも、当然のことである。チェコは、首都プラハがウィーンよりも西にあるのだから、「東欧」ではなく「中欧」であるというチェコ人もいる。また、これらの諸国の人々は、東西冷戦期はロシア語を学ばされていたが、その多くが外国人からロシア語で話しかけられることを好まず、ドイツ語で話しかけられる方を好んだと言う。
ソ連崩壊後、これらの国々が雪崩を打つようにしてNATOやEUに加盟したのも、容易に理解できることである。ロシアは、米国が旧ソ連圏諸国へのNATO拡大はしないという口約束を破ったと、不平を表明している。しかし、これこそ、まさにヤルタ秘密協定の考え方であり、大西洋憲章にある「民族自決の原則」に反しており、とても当事国の理解は得られまい。NATOやEUに加盟申請する権利は、どの国も、どの国からも奪われてはならないのである。ロシアも、孤立を恐れるなら、EU、NATOへの準加盟や、加盟を目指すべきであろう。
もっとも、大西洋憲章の考え方は、第一次世界大戦において、まさにロシアのトロツキー共産党政治局員の「無併合・無賠償・民族自決」の主張と、これに刺激された米国のウィルソン大統領の「14か条の原則」に、さらには、モーゼの「十戒」にまで遡ることができる。「十戒」には色々なヴァージョンがあるが、その中に、「他人の家や家畜や妻を望んではならない」というものがある。これに違反した信徒たちは、厳しい「最後の審判」を覚悟する必要はあるまいか。言うまでもないことであるが、ロシアはキリスト教徒が多数を占める国である。「大祖国戦争」「ファシズムからの解放」などと言っていて、大丈夫なのだろうか?
2.大西洋憲章をほぼ守った米国――米国圏に根付いた「親米・反ソ」
米国は、大西洋憲章・連合国共同宣言で謳われた「領土不拡大の原則」「民族自決の原則」をほぼ守った。米国は陸の国境を接している国は、メキシコとカナダの2か国しかない。メキシコからは、広大な「北方領土」を奪ったが、カナダとは、領土問題を平和裏に解決している。第二次世界大戦後、米国は約束通りフィリピンの独立を無血承認し、その後のほとんどの期間に亘りフィリピンを同盟国として確保した。また、占領下に置いた旧敵国のイタリア、西ドイツ、日本に対しても、ソ連のように領土を奪取せず、専制政治体制にあったこれらの国々に民主主義をもたらし、同盟国にすることに成功した。もっとも、日本が「委任統治領」としていた太平洋の諸島を自らの「信託統治領」とし、日本から吐噶喇列島、奄美諸島、小笠原諸島、沖縄県を切離した。ただし、吐噶喇列島は、サンフランシスコ講和条約調印前に1951年に返還した。また他の3地域は、講和条約では米国を唯一の施政権者とする「信託統治領」とすることが想定されていたが、米国は飽くまでも併合はせず、これらにおける日本の「潜在主権」を認めた。その後、米国は、1953年には奄美諸島を、1968年には小笠原諸島を、そして1972年には沖縄県を次々に返還しており、日米間の領土問題は戦後27年間をもって、一切なくなった。確かに、相変わらず、沖縄県の約1割は返還されず、米軍基地のままであり、住民は日米地位協定などにより他国では享受できない破格の特権を認められた米軍によって、騒音、事故、事件に苦しめられ続けてはいるが、米国は大西洋憲章をほぼ守ったと言って良かろう。
これに対して、南樺太と千島列島については、講和条約では日本が放棄するとされた。この条約では、これらの帰属先は明記されず、なおかつ、ソ連はこの条約に参加していないので、これらは「帰属未定地域」と解釈せざるを得ないようにされた。しかし、ソ連は、大西洋憲章と連合国共同宣言において誓約された「領土不拡大」と「民族自決」の両原則に反するヤルタ秘密協定を盾にして、歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島も含めて、少なくとも戦後75年もの間、一島も返還していない。
実は、米国には、戦略があったのである。米国の中には、第二次世界大戦中から、戦後はソ連が米国の最大の脅威となるであろうから、日本を味方に付ける必要があるという意見があった。京都が原爆の候補地から除かれたのは、敵国とは言え、古い都に対する配慮があったことも確かではあるが、戦後の日本からの協力を見越した上での、計算された判断があったのである。とは言え、米国は前代未聞の残虐兵器である原子爆弾を広島と長崎に投下し、1945年末までだけに限定しても、それぞれに12万人、7万4000人を殺害した。また、原爆候補地以外のほとんど全ての都市や町に無差別爆撃を行い焼き尽くした。戦後は、日本の大半を占領したことによって、日本人に対する米兵の犯罪も多発し、日本人の反米感情も燻り続けた。他方、米国にとっては、ソ連、中国、北朝鮮、北ヴェトナムといった社会主義諸国との対立の激化によって、日本、特に沖縄・小笠原を米軍基地として確保する必要もますます強まってきた。しかし、米国国務省は、あくまでも大西洋憲章を順守すべしとして、これらを日本領にとどめることを主張した。これに対して米国軍部は、これらを日本から切り離すことを主張した。結局、米国は、当初はこれらを信託統治領とすることを主張し、これが難しいとなると、これらにおける日本の「潜在主権」を認めるとしたが、あくまでもこれらを米国領とすることは控えたのである。さらに、米国は、ソ連が若干の島々を日本に返還することを想定して、その際の対抗措置をとるために、それほど重要でない奄美諸島を、わざわざ沖縄・小笠原と同様に日本から切離すこととしたのであった。
ちなみに、米国には、日本の友好的な態度を得るために、日本に奄美・小笠原・沖縄の全領土を「返還」すべきだという意見があった。これに対して、ソ連では、日本の友好的な態度が期待できるならば、歯舞・色丹を「引渡し」ても良いという意見があった。米ソで順序が正反対となっているのが、興味深い。
結果はそれ以上となった。実際に、米国は全領土を返還して日本の友好的な態度を獲得し、ソ連は全領土を返還せずに日本の友好的な態度を獲得できなかったのである
米国は「島」を返して「信」を失わずに済み、ソ連・ロシアは「島」を返さずして「信」を失ったのであった。かつてソ連のグロムイコ外相が日本は「小さい四島」に拘るよりも、「大きい四島」を守ることを考えた方が良いという「下手な冗談」を言ったそうである。もっとも、彼にとっては「上手い冗談」だったのかもしれないが、ソ連・ロシアこそ「小さい四島」に拘って、「大きい四島」を友好国とすることに失敗したのではないだろうか。これに対して米国は、「小さい四諸島」を返して、「大きい四島」を友好国とすることに成功したとも言えよう。
別の言い方をすれば、米国は、日本にとって死活的な島々をソ連に拘らせるという罠にかけることに、成功したのであった。しかし、別の見方をすれば、ただ単に、米国の方が賢く、ずるくなく、ずる賢いだけなのかもしれない。クマの目で見るか、ワシの目で見るか、目先ばかりを見るか、先を見るかとも言えるかもしれない。
戦後、米国政府には、日本人にはアメリカは「ソフト」でソ連は「ハード」という印象を持たせようという戦略があったのである。日本に対して北風を吹かせるソ連に対して、米国は太陽のように振舞うとも言えよう。ちなみに、小学校の先生が授業で、「アメリカは優しい国ですが、ソ連は意地悪な国です」と言っていた。「米国恐るべし」である。
逆に、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄したとしても、もし満州と朝鮮の解放のみ行い、日本領に一切野望を抱かなければ、日本の「南方領土」を併合と言わずも当初は切離し、原爆を2発投下した米国よりも、日本において道義性に関して優位に立つことができたであろう。
3.大西洋憲章をほぼ守った中国――「反米・親ソ」から「親米・反ソ」へ
第二次世界大戦中の1943年に行われた米英中首脳によるカイロ会談で、ローズヴェルト米大統領が、中国の蔣介石主席に琉球が欲しいかと尋ねている。この時、蒋は大西洋憲章を踏襲して、琉球は奪われた所ではないので要らないと答え、あくまでも、奪われた台湾・澎湖諸島の返還を求めるのみに留めている。沖縄県の尖閣諸島についても、この時は要求した形跡は見当たらない。中国は、米英ソ首脳によりほぼ同時期に行われたテヘラン会談や、翌年のヤルタ会談で、南樺太と千島列島を要求したソ連とは、好対照をなした。ちなみに、千島列島は日露戦争によって日本が奪ったところではない。南樺太についても日露戦争で日本領になったとは言え、樺太は日本人が先に経済活動をし、その後日露両属の状態だったこともあるので、台湾・澎湖諸島と同様にはみなせない。しかし、ソ連のスターリン首相は、大西洋憲章を守るつもりなど、全くなかったのである。
戦後、朝鮮戦争で米中は交戦し、また、名目上は日本、実質上は米国を対象とした中ソ同盟が結ばれ、「中ソ一枚岩」という言葉がしばしば使われるようになった。しかし、それは脆いものであった。
満州における日本軍の降伏受理の担当は、中国ではなくソ連とされた。さらに、ヤルタ秘密協定によれば、旅順・大連と南北の満州鉄道におけるソ連の特権が認められることとされていた。ソ連はこれに基づいてこれらを接収した。もっとも、ヤルタ秘密協定は、署名者の国名が明記されておらず、ローズヴェルト、スターリン、チャーチル英首相のあくまでも「3人による密約」であり、連合国「26か国による公約」に優先されるべきものではないが、中国は戦後10年をかけて、やっとの思いでこれらの権益を回収したのである。
ソ連の対日参戦は、ソ連からすると「解放」となるが、中国人はどう見ているのだろうか。ハルピンの歴史博物館には、ソ連に関する記述が全く見当たらなかった。第二次世界大戦の地図には、中国の共産党軍と日本軍の進軍ルートしか示されていなかった。中国人のガイドさんに、「ソ連の対日参戦は中国ではどう評価されているんですか?」と尋ねると、即座に「虎がいなくなった後に狼がやってきた」と答えてくれたのである。つまり、「鬼畜米英」ならぬ「鬼畜日ソ」ということであろう。その後、珍宝島における中ソ国境紛争が勃発するなど、中ソ対立は決定的になった。1972年には日中が、1979年には米中が国交を正常化した。この間、日ソに先立って、1978年には日中平和条約が結ばれた。これに際して、ソ連は日本に対して認めていた、歯舞諸島近海のコンブ漁を中断した。この頃から中国は、日本の北方四島の返還要求を支持し始めるのである。その後、歯舞のコンブ漁は再開されるが、その際、1隻当たりの入漁料が、年間30万円だったものが400万円に引き上げられた。
シベリア抑留をさせられた人が、日本は、ソ連とは向こうから開戦されて1週間戦っただけだが(実際には8月9日から25日までの17日間)、米国とは自ら開戦して4年間も戦い、中国とも自ら開戦して8年間も戦ったので、米国や中国に捕まった人々は、自分よりもっとひどい目にあっただろうと思っていたが、実際は逆だったので驚いたと言っていた。
中国もロシアに「北方領土」を奪われているが、米国との間には領土問題がない。従って、中国が「反米・親ソ」から「親米・反ソ」に変わることは、それほど不思議ではないのである。これにより、「日米中」対「ソ」という構図が成立し、「四面楚歌」ならぬ「四面ソ歌」となり、ソ連は孤立し崩壊へと至るのであった。(つづく)
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