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2021-07-07 00:00
(連載1)日露平和条約交渉の視角と死角:「引分け」とは「北方四島÷2」ではない
梶浦 篤
研究者
第二次世界大戦中の1944年に米国国務省のブレイクスリー博士が作成した文書にある、色丹・国後・択捉についての記述。
「ソヴィエトの権利を正当化する要因は、ほとんどないように思われる。ソヴィエト連邦へのこのような譲渡は、将来の日本が永久の解決としては受入れ難い事態を造り出すことになろう。それは、歴史的にも民族的にも日本のものである島々と、漁業的価値のある海域を日本から奪うことになる。」「もし要塞化されるならば、日本に対して絶えず脅威となるであろう。」
1.はじめに
ロシアのプーチン大統領が、日露平和条約を「引分け」によって解決しようと言ったのは、実に柔道家の彼らしいと思った日本人は、少なくなかろう。ところが、日本側では、大統領に「引分け」とは何島返還なのかと尋ねるような雰囲気が生まれた。そうではなく、「引分け」というならこういう結論になるのではないかと、ロシア側に投げかけるのが、交渉というものではないだろうか。もっとも、そのような意見も全くないわけではないが、どうにもその視角が限定されており、死角をみすみす見逃しているように思われる。
2.「引分け」とするには、まず「何が100か」が重要
日露平和条約交渉は、視角を変えれば死角が見えてくる。まず、「北方四島」だけでなく、「千島十八島」や「樺太」を含めたもっと大きい地図を使うべきだということ、さらに、この交渉は、地図を使った領土交渉のみではないということである。ロシア研究家の袴田茂樹氏によれば、ロシア人はケーキを分けるときに、まず自分の分を取ってから、残りを相手と分けようとするのだそうだ。それを当てはめてみると、「北方領土を分けるときに、まずロシアが南樺太と千島を取ってから、さて四島をどうやって分けましょうか?」ということになるのだろう。
外交交渉の結果は、引分け(50対50)が一番長続きするとも言えよう。また第二次世界大戦は連合国が、冷戦では西側が勝利したのだから、「引分け」というのも理に適う。但しその際に、何が100であるかということを、正確に決める必要がある。また、和解のための「引分け」というなら、「貸し」「借り」をなくすということ、お互いの痛みを同じ程度にすることになるとも言えよう。「法と正義」に基づき、歴史の痛みの治癒につながる、真心のこもった結論となる必要がある。領土についてだけ言えば、歯舞、色丹は1956年のモスクワ宣言で日本への「引渡し」が確定している。従って、未確定である国後、択捉の「二島」、千島「十八島」と南樺太が100であり、歯舞、色丹、国後、択捉の「四島」が100ではない。もっとも、領土だけで100ではないことは、後に詳しく述べることにする。
ただし、ここで注意すべきことがある。図らずも、日本人元外交官の2人から、外交はフィフティー・フィフティーが良いということを聞かされたが、ここには落とし穴がある。果たして、外国もそのように考えているのかということである。日本が米中露韓朝などと交渉する際に、どうやら先方は皆、そうは考えていないように思われることが多々あるからである。他の国々は、日本は結局は半分譲るということを知っていて、日本に対しては最初は200を吹っかけておいて、最後の最後でそのうちの100を譲って、さも最初の100から50を譲ったかのように見せかけて100を取る、という戦略をとっているように感じるということである。ロシア研究家の木村汎氏は、日本人はついつい言い値で買ってしまうが、外国はバザールなのだと語っていた。また、一部に見られる「四島→三島→二島」と譲歩するような考え方に対しては、バナナのたたき売りではあるまいしという批判がなされている。バナナには賞味期限があるが、領土にはない。アヘン戦争で香港の主権を永久に放棄させられた中国が、150年かけて平和裏に香港を取り戻したことに、留意すべきであろう。
3.いわゆる「クリル諸島」の範囲・地位と南樺太の地位
千島列島は、英語で書かれたヤルタ秘密協定では「クリル諸島」と記され、サンフランシスコ条約では英語、フランス語、スペイン語の「正文」では「クリル諸島」、日本語の「訳」では「千島列島」と記されている。従って、ヤルタ秘密協定やサンフランシスコ講和条約でこの島々の範囲を論じる際には、「正文」に使われている「クリル諸島」の定義が優先されるべきである。戦後のソ連は、いつの間にか、千島に当たる「クリル」には「四島」を含むと主張し始めた。1947年ころからは、歯舞・色丹を「小クリル」とし、最近では『「大クリル」という言葉も使われるようになっている。
また、日本側にも、「クリル」には国後、択捉を含むという主張がみられる。その代表的な主張の一つとして、村山一郎氏の『クリル諸島の文献学的研究』(三一書房、1987年)に触れておく。この研究の特徴の一つとしては、1855年に締結された日露通好条約を、正文のオランダ語文までも遡って論じたことが挙げられる。これによれば、日本語文の「『ヱトロプ』全島は日本に属し『ウルップ』全島夫れより北の方『クリル』諸島は魯西亜に属す」とある部分に該当する、オランダ語文を精査している。村山氏も指摘しているが、日本語文は正文のオランダ語があまり正確には訳されていない。「『ヱトロプ』全島は日本に属し『ウルップ』全島および北の方その他の『クリル』諸島は魯西亜に属す」の方が、より正確であろう。村山氏は、これにより、「ヱトロプ」以南の諸島か、少なくとも「ヱトロプ」は「クリル」諸島に属すると結論付ける。
しかし、もしそうであるならば、「『ヱトロプ』全島および南の方その他の『クリル』諸島は日本に属し『ウルップ』全島および北の方その他の『クリル』諸島は魯西亜に属す」と前半と後半を統一するのが自然ではないだろうか。
本来は以下の事実、史実から、「クリル諸島」は得撫島以北の「十八島」のみとなっていると判じられる。
(1)「クリル」という言葉は、ロシア人が「クリル人」と呼んでいた「千島アイヌ」の居住地が語源である。択捉島以南の「四島」には「北海道アイヌ」が住んでいた。
(2)ロシア皇帝アレクサンドル1世の勅令には、「クリル諸島、即ち……得撫島南岬……に至るまでの諸島」という定義がなされている。これは、日露両国の外務省が共同で作成した『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』にも掲載されている。
もっとも、同資料集にある、ニコライ1世のプチャーチン提督宛訓令には、択捉島を「クリル諸島」の一部とみなしている形跡があるが、この訓令の結論は、「(今日既に事実上そうであるように)我が方は同島の南端が日本との国境になり、日本側は択捉島の北端が国境となる」とされているのである。ちなみに、「同島」とは得撫島のことである。
(3)樺太千島交換条約のロシア語正式名は、「……日本に属するサハリン島の一部とクリル諸島とを交換する条約」となっており、「クリル諸島」の方は「一部」とはなっていない。ちなみに、日本語では、「樺太千島交換条約」となっており、「『千島の一部』と『樺太の一部』の交換条約」とはなっていないのである。また、日本側の外交文書によれば、日本領となったこの諸島について、この交渉において、「キュリル諸島」と称されており、「北キュリル諸島」ではないのである。
樺太千島条約は、千島列島の帰属が扱われた条約としては、サンフランシスコ講和条約の直近のものであり、またこの条約は日露間で平和裏に結ばれたものでもある。従って、千島列島の範囲を論じる際に、重要な根拠となるものでもある。
「クリル諸島」は、ヤルタ秘密協定でソ連に「引渡す」とされ、サンフランシスコ講和条約で日本が放棄するとされている。しかし、条約等の取り決めは不参加国に何ら利益も損失も与えないという国際法の原則から、ヤルタ秘密協定が日本に損失をもたらすことにも、サンフランシスコ講和条約がソ連に利益をもたらすことにもなりえない。従って、十八島からなる「クリル諸島」は、南樺太と共に、帰属未定地域となっているのである。
なお、注意しておきたいのは、サンフランシスコ講和条約は、日本の主権回復のための条約であり、それは取りも直さず、連合国軍の支配下にあり主権を奪われていた日本が結ばされた、言わば「不平等条約」である。従って、不平等な個所については、主権回復後の日本が修正を要求することは当然の権利である。現実に、大西洋憲章に反して同条約第3条によって切離された、奄美・小笠原・沖縄についは、それぞれ返還協定によって、日本に復帰した。従って、第2条(c)によって切り離された樺太・千島についても、大西洋憲章に従って、修正される余地が充分にある。人類の歴史の進歩は、「領土不拡大」「民族自決」の大西洋憲章にあり、これに反するヤルタ秘密協定は、人類の歴史の進歩に逆行しているのである。
いずれにせよ、北方領土問題イコール「千島の範囲」とみなす議論が散見されるが、範囲で言うならロシア名の「クリル」で見ていく必要があり、それが総じて択捉島以南を含んでいない例が多く、また、第二次世界大戦の領土問題解決の大原則である、大西洋憲章の「領土不拡大」と「民族自決」の両原則によれば、千島列島が日本に帰属すべきであるという結論に達することからすると、「範囲」の問題は、大きな意味を持ちえない。
4.何が「引分け」か
樺太千島交換条約によれば、「樺太島即薩哈嗹島ヲ讓ラレシ利益ニ酬ユル爲メ全魯西亞國皇帝陛下ハ次ノ條件ヲ准許ス」として、ロシアが日本に対して樺太における若干の特権を認めている。これは、樺太千島交換条約の国境線はロシア側に有利であるということを、ロシアが認めていたことを示している。樺太は、東洋のエルザス=アルザスと、ロートリンゲン=ロレーヌであると言った人がいた。とすれば千島はラインラントということになり、ロシアの主張は、ドイツに対して、ラインラントとさらにその対岸のライン川の西側までも要求しているということになるのである。
「第二次世界大戦の結果」と言うなら、ローズヴェルト、スターリン、チャーチルの「3人」によって、不参加国の日本、中国、モンゴルに対するソ連の拡張主義、覇権主義、帝国主義、報復主義的な利権の取得を定めた「密約」であるヤルタ秘密協定ではなく、米英によって唱えられた大西洋憲章と、さらに米英ソ仏中などの連合国「26か国」によって合意された連合国共同宣言といった、民主主義、人道主義、平和主義的で、公明正大な「公約」に基づくべきだ。大西洋憲章と連合国共同宣言によれば、大国と小国、戦勝国と敗戦国の平等に基づいて、「領土不拡大の原則」と「民族自決の原則」が打ち出されている。この考え方こそが、「引分け」ではないか。「26か国の公約」が「3人の密約」によって覆されるなどと言うことは、あってはならないのである。
2021年のG7サミットにおけるバイデン大統領とジョンソン首相による米英会談で、80年前の大西洋憲章の第2弾と言える新大西洋憲章が出された。来年のサミットでは、同様に、80年前の連合国共同宣言の第2弾として、新連合国共同宣言をG7+αの参加国全体で出し、「領土不拡大」と「民族自決」の原則を再確認することを、提案したい。ロシアのみならず、中国、韓国、イスラエル、トルコ、シリア、イラン、イラク・・・・・・などの幾つかの国々にとっても、耳の痛いことだろうが、北方領土の難民のみならず、チェチェン人、チベット人、ウイグル人、(南)モンゴル人、島根県民、パレスチナ人、クルド人・・・・・・などの人々にとっては、大きな励みとなろう。さらに言えば、第二次世界大戦における日ソ戦は、ソ連の侵略戦争、言わば「反則」とみなされる。これに関連する今日までのソ連・ロシアの「反則」は、以下の通り、幾つもある。
ソ連は、1946年4月まで有効であった日ソ中立条約を、一方的に破棄したこと。これにより、約6万人のシベリアなどの抑留の犠牲者を含め、軍民合わせて約38万人の死者が出た。また、多くの「残留孤児」「残留婦人」が生じ、さらには、いわゆる「特殊婦人」とされた中には、自殺に至った女性たちも出たのである。
ある抑留体験者の体験談を聞いた時、全くソ連のことを話されないので、ソ連に対してどのように思われているかと伺ったところ、領土くらいは、樺太も含めて、全部返してはどうかと言っていた。
1945年8月15日に日本がポツダム宣言受諾し、米英中などの連合諸国が戦闘をやめた後にも、ソ連は唯一、攻撃を続け、米国からは非難も受けたこと。ちなみに千島北東端の占守島への上陸作戦は、終戦3日後の8月18日に開始されている。
ソ連は、占領地の現状を変えてはいけないという戦時国際法に反して、島々から日本人を追い出し自国民の「入植地」としたこと。現代風に言えば、これはまさに「民族浄化」の一種に他ならないのである。
大西洋憲章や連合国共同宣言に謳われた、「領土不拡大の原則」や「民族自決の原則」に反して、ソ連は島々を一方的に併合したこと。
ポツダム宣言に反して、ソ連は約60万人の捕虜を、帰国させると騙してシベリアなどに最長で11年も抑留し、さらには帰国を諦めざるを得なかった者も出し、約6万人の犠牲者を強いたこと。
2015年度までに、ソ連・ロシアは北方四島近海で、日本の漁民9502人、漁船1341隻を拿捕し、513隻を没収し、31人が死亡させていること。
中立国であった満州国を侵略したこと。満州国は「領土不拡大」「民族自決」の両原則に反しているとはいえ、ソ連はこれを国家として承認していたが、その国境を侵犯したこと。
これらにより、ロシアは大きく「信」を失ったのであった。
これに対して、日本は、一番困っている時に侵略してきた、ソ連・ロシアが一番困っている時に、大規模な経済支援をした。その規模は、1998年度までで、62億ドルにまで及んだ。このように、日本はロシアに対しては、いろいろと「貸し」がある。これらも含めて、どうしたら「引分け」になるのかと、考えていく必要がある。
1956年の日ソモスクワ共同宣言は、日本が約2000年の歴史の中で最低の国力、ソ連・ロシアが約1000年の歴史の中で最高の国力の時点で結ばれたものであり、ソ連の一方的優位の産物であったと言えよう。今日、立場は全くの逆転となったとは言えないが、力関係は正反対となっている。また、日本が国家崩壊の危機にあった大戦末期に、中立国ゆえにソ連に仲介を依頼したにも拘らず、ソ連は中立条約を破って侵略した。これに対して、ソ連が国家崩壊の危機にあった冷戦末期に、かつての大戦における裏切りがあったにも拘わらず、日本は経済支援をした。このような日本側の忍耐や努力は、それ相応に報われる必要がある。従って、以上のような歴史の経過の上で今日平和条約を結ぶのであるから、モスクワ共同宣言で平和条約の締結のみしか条件として明記されていない歯舞・色丹の返還は大前提であり、当時の状況から解決に至らなかった国後・択捉の返還についても、ロシアは譲歩をすべきである。仮に国後・択捉の返還がなされたとしても、これまでに論じてきたように、ロシア側の大勝利となるのであるから。また、ロシアがモスクワ宣言に記されていない条件(例えば、歯舞・色丹に米軍が進駐しないこと)を求めるならば、ロシアはそれ相応の譲歩をする必要がある。なお、米国農務長官も、ロシアに対して、1956年の合意を上回る譲歩をすべきと述べている。(つづく)
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