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2021-04-01 00:00
米中覇権競争に食い込むロシア: マスク外交を事例に
廣瀬 陽子
慶応義塾大学教授/GFJ有識者メンバー
はじめに
2020年は新型コロナウイルス感染症(Covid-19)問題 [以後、コロナ問題と略記] により、世界は大きく混乱し、地経学にも大きく関わる多くの「連結性」にネガティブな影響が起き、国境を超えた人の往来がほとんどなくなった。しかし、新たな外交のスタイルが生まれたのも事実である。それが、いわゆる「マスク外交」および「ワクチン外交」である。中露はそれらを積極的に展開した(ワクチン外交には、少し遅れてインドも参入)。
欧米諸国の多くが自国のコロナ対応、ワクチン確保で余裕がない中、中露のマスク外交、ワクチン外交は、多くの国に感謝され、外交戦略としても成功したと言えるだろう。
マスク外交とは、諸外国にマスクや医療機器、医薬品、医療物資の提供を行い、また、ロシアについてはそれらに加え、消毒・治療などを行う軍事要員の派遣なども実施することで、外交関係を強化することを指す。早期に自国のコロナ問題を封じ込めた中国がマスク外交を展開し、また、ロシアも自国が深刻なコロナ感染状況に見舞われる前の2020年3月末くらいまでは特に積極的かつ広範にマスク外交を展開した。
他方、「ワクチン外交」では、コロナ問題の克服の切り札であるワクチンを提供することで影響力の拡大が図られている。特に、安価で輸送・保存がしやすく(つまり、保存に必要な温度がより低くないことが望ましい)、効果が高いワクチンがより望まれるが、ロシアが2020年8月11日に世界で初めて承認した「スプートニクV」はそのすべての条件を満たしている(2021年2月末現在、ロシアは3種のワクチンを開発・承認している)。特に、2021年2月2日に英医学誌ランセットが臨床試験(治験)の最終段階で91.6%の効果が確認されたとする論文が出たこと、スプートニクⅤの保存温度は−18℃なので(ファイザー製は−75℃(±15℃)、モデルナ製は−20℃(±5℃))、比較的輸送しやすいだけでなく、春にはフリーズドライ化が可能だとされていて、そうすれば、通常の冷蔵庫の温度で輸送・保存ができるようになること、価格が欧米製と比べて安価( 2回の接種分が20ドルで、欧米製の約半額。現在、2度の接種が必要なことがネックになっているため、1度の接種で済むスプートニク・ライトの開発が進む)であることも人気を呼んでいる。中露のマスク外交、ワクチン外交はEUの支援を受けられなかったバルカンなどの欧州、アジア、アフリカ、南米などで大きな影響力を発揮している。ワクチン外交はまだ現在進行中で、現状での分析が困難であるため、本報告書では、ロシアのマスク外交にフォーカスし、ロシアがどのようにマスク外交を展開し、コロナ禍において米中覇権競争に食い込みつつ、自国の影響力拡大を目指したのかを検討する。
マスク外交
ロシアは新型コロナウイルス発信源の中国と長い国境を接し、しかも中国とは、2014年のウクライナ危機後、特に緊密な蜜月関係になっているが、それでも早期に国境を封鎖し、3月末までは感染防止にかなり成功し、その頃マスク外交を大規模に展開した。結局のところ、ロシアでも4月に入るとパンデミックが起こり、マスク外交も停滞するが、マスク外交中は、支援物資や医療物資、医療従事者などを様々な国に送り込んだ。
それらマスク外交によって、大きな恩恵を受け、ロシアに感謝する国(特にセルビアなど)がある一方、「支援外交」の陰の「ロシアの下心」を批判する声も少なくなかった。そこで、まずロシアの狙いから整理したい。
第一に、情報収集である。これはイタリアに対する支援が好例になるが、ロシアは、自国でパンデミックが起きる前に支援部隊を感染が広がっていたイタリアに送り込み、支援よりも実際は情報収集をし、ロシアでパンデミックが起きた際の対応を考える上での材料を集めていたと考えられている。
第二に、支援をすることで、ロシアが現在発動されている経済制裁を解除・ないし弱めてもらうという目的だ。これは主に米国に対する目的であると言える。米国は最も深刻な制裁をロシアに課しているが、ロシアはその解除を強く願っている。支援で「貸し」を作れば、制裁解除を導けるという計算をしているとも言われる。また、ロシアは、支援について派手にメディアで宣伝している。ロシアからの支援を得ることで、米国内の政治的分裂を助長し、国際的に米国の弱さを印象付けるという目的もありそうだ。
第三に、欧州分断の目的である。ロシアの支援は、欧州でまだEUやNATO非加盟国の旧共産圏諸国やそれらに加盟していても、EUに馴染んでいなかったり、親露的であったりする国で目立つ。それらの国が、EUや NATOから支援が得られない一方、ロシアから支援が得られれば、ロシアに対する感謝や親近感を強める一方、欧米諸国に対する不信感をより強めることになる。元来存在しているEU・NATO内での歪み、亀裂をより深め、決定的な欧州分断を図ろうとしているのだ。第二の点で述べたのと同様に、ロシアは欧州に対する支援についてもメディアを使って派手に宣伝しており、欧州が頼れるのはロシアしかないというイメージ操作すら行った。
第四に、反露的な国を除く旧ソ連諸国や、米国や中国との関係で「友好国」にしておくことが戦略的に有利である国々である。この背景にあるのは、明らかにロシアの影響力を維持・拡大するために、ロシアの好印象を獲得したいという思惑だろう。
支援外交の狙い1:情報収集
欧州で最も早くコロナ禍に見舞われたのはイタリアであるが、3月21日のジュゼッペ・コンテ伊首相とウラジミル・プーチン露大統領の電話会談を受け。23〜25日に、ロシアは救援物資を満載した15機の軍用輸送機を派遣し、医療支援を行った。27日からは、ロシア・イタリアの専門家が共同で、高齢者用ペンションの消毒や集中治療室の機材据え付け作業などを行った。ロシア軍が撤退する5月初旬までに露伊共同部隊は、ロンバルディア州の90以上の居住区の高齢者施設の消毒作業を実施し、多くの施設や道路の調査も行った。
ロシアで華々しく報じられたその援助だが、イタリアではロシアの下心がむしろフォーカスされ、純粋な慈善行為とはみなされなかった。ロシアの狙いは二つあると言われている。第一に、援助で「貸し」を作り対露制裁の凍結につなげる狙い、第二に情報収集の狙いである。
ロシアからは600台の人工呼吸器などの医療物資と、セルゲイ・キコット少将率いる軍人、軍医、ウイルス学者、疫学者など100人の軍の医療部隊が送られたが、支援物資を受け取ったイタリアでは、ロシアの支援物資は、イタリアでの使用には適さないものだったという内部告発が表面化し、ロシアの「善意」に疑問がもたれるようになったのである。例えば、『ラ・スタンパ』など、イタリア・メディアは支援物資として送られたもののほとんどは新型コロナウイルスの治療には無意味なものだった、であるとか、ロシアの支援の80%は全く役に立たないものだ、というような報道が出た。他方、「人的支援」として送り込まれた軍の医療部隊は、感染拡大がロシアに先行していたイタリアで、感染の現実やいかにすれば効果的に抑え込めるかなどを学ぶことができ、その知識をロシアにおける予防や治療に活かすことができたとされた。さらに、イタリアはNATO加盟国であり、同国で活動すれば、NATOの治安部隊の動向も掴めたのだ。
そのため、イタリアではロシアの支援を「スパイ行為」だと主張する向きもあった。
イタリア当局は国防省と外務省の合同コミュニケで謝意を表明しているものの、『ラ・スタンパ』の情報源は国防省だとされており、イタリア政府の本音は掴みきれない。
ともあれ、そのようなイタリアの主張に対しては、ロシアはもちろん激しく反発し、大使、外務省、国防相などが公然と批判を行った。確かに、ロシアは中国と対抗しながら欧州でのより高いプレゼンスを狙いたいという思惑も持っていたはずであるし、露伊両国が歴史的に良好な関係を持ってきたのも事実で、イタリアは、対露制裁にも完全に足並みを揃えておらず、EUの中では親露国であった。さらに、一般的に他国への支援は国際的に通常はポジティブに受け止められる。そのため、ロシアの対伊支援の全てが悪いものだと断罪することはできないが、結論を言えば、ネガティブな印象を与えるものとなってしまった。
支援外交の狙い2:制裁解除と米国内の政治的分断
他方、感染が拡大していた米国に対し、プーチン大統領は医療物資の支援を提案した。そして、米露両大統領の電話会談による合意に基づき、ロシアは4月1日には米国に向け、人工呼吸器、消毒液、マスク、ゴーグルなど医療支援物資を満載した軍用輸送機(アントノフ124)を派遣したのである。また、ロシア直接投資基金(RDIF)は、日露の協力によって開発された1時間に20人を検査できる検査システムを供与したとも述べている。
この展開はイタリアと似ているが、実はその内容には意図的だと思われる「違い」があった。米国向けの支援医療物資には、イタリア向けには入っていなかったマスクなどより実質的な物資が含まれていたのである。
しかも、ロシアゲート問題などで、ロシアに貸しを作れば、間違いなく国内からバッシングにあってしまうドナルド・トランプ大統領(当時)は「米国が購入する」という体裁をとった。なお、米国がロシアに支払った額は不明だが、ロシア外務省によれば、その半額は米国が支払い、残りの半分はRDIFが負担したとされている。少なくとも、米国は全額を支払ったわけではないようだ。もし、ロシアの贈与分もあるとすれば、あくまでも「購入した」という姿勢を貫くトランプをプーチンは否定せず、トランプの面目を保つことに協力した可能性がある。そうだとすれば、トランプはプーチンに貸しを作ったともいえるだろう。
他方、ロシアが米国に供給した医療物資は、米国が対露制裁の対象としている会社の子会社が生産したものも含まれていると言われている。具体的には、ロシアが供給した人工呼吸器四五台の中には、「Aventa-M」モデルが多く含まれていたが、同モデルは、米国の制裁リストに入っているロシアのロステック・ホールディングスのKRET社傘下のUPZ社が製造している。それを米国が「購入」したという事実は、米国がすでに制裁を自ら破っているという見方もでき、ロシアが米国に「制裁解除」を要請する際のカードにもなりうる。つまり、ロシアは米国への支援により、色々なカードを握ったとも言えるのだ。実際、そのことをロシアのRTなどが積極的に喧伝している。
結果的には、広がるパンデミックの中、米国で大きな争点にならなかったものの、ロシアゲート問題などで、トランプ政権とロシアの関係に懐疑的な民主党などからの反発が予測さたため、ロシアが米国の政治的分断を目論んでいた可能性もかなり高い。
さらにロシアにとって副次的な効果としては、イタリアへの支援はEUがイタリアを救えないからロシアが立ち上がったという図式を示すことで、E Uの無力さや連帯の弱さを明示できたということがあった。さらに、米国政府が制裁対象としているロシア企業から医療物資を「購入」したという事実も米国の弱体化を示す効果をもち、ロシアの国際的立場を強くしたともいえそうだ。しかも、ロシアも新型コロナウイルスと戦わなければいけない中で、ロシア人も使いたい貴重な医療物資を米国に供与したことは、ロシアの「慈悲深さ」のアピールにもなった(ただし、ロシアの反体制派は、ロシア国民の困窮した状況を無視した外交戦略であるとして政府を強く批判している。実際、4月以降にロシアで感染拡大が深刻化すると、医療関係でも医療物資が顕著に不足するようになり、医療関係者の怒りが爆発したと言うこともある)。欧米に対する支援については、ロシアメディア(テレビ、新聞、インターネットニュースなど)が派手に喧伝しており、また、「#RussiaHelps」というハッシュタグで、ロシアの支援を称える夥しい数のツイッターが書き込まれ、「欧米ですら、頼れるのはロシアだけしかない」というイメージ工作を展開した。
さらに、これらの支援物資の輸送が全て民間機ではなく、軍の輸送機によって行われた事実もまた、ロシアの戦略的意図の証明となっていると言われている。クリミア併合やそれに続くウクライナ危機におけるロシアの暗躍で、ロシアは経済制裁を受けているが、ロシア「軍」が支援物資を輸送することにより、「軍」が善行をしたという事実を示すことができ、ロシア軍のイメージアップやひいては制裁解除への一歩になると考えたとも言えそうだ。
支援外交の狙い3:欧州分断〜軍を利用して
ロシアの新型コロナウイルス問題に関する対外支援の目的には「欧州分断」の目論見もありそうだ。ロシアはEUに対しては、必ずしも敵対的ではなく、「反ロシア的」な動きに対して反発をしているだけで、EUとの協調、連携はむしろ望ましいと考えていると思われる。たとえば、2012年にプーチンが提案した「ユーラシア連合」は、EUのような地域連合体を目指すもので、アジアとEUを結束することを目指すとされていた。
だが、ロシアはNATOに対しては極めて強く反発をしてきた。そもそも、ロシアとしては、冷戦の遺産であるNATOは冷戦終結後の現在にあって、「消滅しているべき存在」であり(冷戦時代にNATOと対抗して存在していたソ連主導の「ワルシャワ条約機構」は、ソ連解体前の1991年7月に解散)、さらにそれが拡大し続けているということは許しがたいのだ。何故なら、西側諸国はそのような事実があったことを否定しているが、ミハイル・ゴルバチョフ・ソ連元大統領は「1989年11月の東西ドイツ統合は、NATOがドイツを最後に拡大しないという約束に基づいて認めた」と主張しており、ロシアにとって、NATO拡大はロシアに対する西側の裏切り行為以外の何物でもないのである。
そして、ロシアは影響圏へのEU、そして特にNATO拡大を阻止すべく躍起になってきた。たとえば、EU、NATOの潜在的加盟国に対し、援助などでロシアに引き寄せるような行為をとったり(特に、セルビアなど)、クーデタ未遂を起こしたり(NATO加盟直前のモンテネグロなど)してきた。
コロナ渦においても、そのロシアの戦略は健在であり、セルビアへの援助により、同国との関係を強化することで、やはりセルビアへの接近が顕著になっていた中国に対抗するとともに、EUからのセルビア引き離しを達成しようとしたと思われる。セルビアはEU、NATOの潜在的加盟国であるが、国内にコソヴォ問題を抱えており、現状ではいずれの加盟も難しい状況だ。
セルビアに対するロシアの支援を考える前に、ロシアが焦燥感を覚えたと思われる、中国による対セルビア援助がいかなるものだったのか、まず見てみよう。中国は、セルビアのアレクサンダル・ブチッチ大統領が中国の駐セルビア大使に、「EUが支援してくれず、自国のような加盟希望国を締め出そうとしている」ことから、中国に対して「兄弟としての支援」を求めた後の3月21日から、エアバス1機にマスク、防護服を満載してセルビアに送った。
ブチッチは、プーチンにも支援を要請し、ロシアはすぐに応じた。4月2日の両国大統領の電話会談ののち、その支援は、セルビアのアレクサンダル・ブーリン国防相が強調するように、「二人の最高司令官」が合意した取り決めに基づき、両国の「軍事技術合意」に立脚して行われた。ブーリンによれば、ロシアとロシア軍からの援助は、新型コロナウイルス対策のみならず、結果としてセルビアの軍の強化と防空の増強に貢献するものだという。
4月3〜4日に軍用機11機が派遣されて始まったロシアの支援は中国の支援から2週間ほど遅れたとはいえ、中国のそれをはるかにしのぐ規模で行われた。ロシアは40人以上の軍人と87名の軍医及びウイルス学者、4ユニットの特別な軍事装備品、医療機器や防護用品を送り込んだ。そして、地方政府の要請により、ロシア軍の専門家はセルビア軍と協力して、30都市で、医療機関、警察署、学生寮などを含む156箇所の様々なインフラ設備を消毒し、約255の建物や施設を整備した。またロシアの医療班は、地方の司令官と協力しながら、首都・首都郊外・地方主要都市・さらに小さな村落へと、治療センター設置を拡大させ、セルビアの医療関係者の養成にもあたった。加えて、ロシア軍放射線・化学・生物学防護部隊の軍医やウイルス学者が地元の医師と協力しつつ、感染者の治療などに貢献した。
また、ロシア緊急事態省は、セルビアの求めに応え、消防士の装備品3000セット以上をセルビアに供与した。
これらの支援は極めて有意義だと評価され、5月16日の撤退開始まで続けられた。なお、その後、ロシア国内で開発された検査キットも供与された。
このような新型コロナウイルス対策での援助は、バルカン地域においては「防護マスク」外交と呼ばれ、少なくとも5月時点ではEUの支援がなく、中国の支援もそれほど大規模ではなかったことから、ロシアの圧倒的優位が確立されていた。つまり、バルカンでの影響力を欧州、ロシア、中国で争う地経学・地政学状況の中、ロシアが一歩リードしたということになる。
この構図をもう少し詳細に検討する。
第一に、セルビアは本来であれば、EUから支援を受けたかったのだが、EUが対応しなかったがために、中露に支援を要請することとなった。欧米諸国がバルカン地域への援助を手厚く行えば、同地をめぐる三極の援助合戦がより激しく展開されただろう。
第二に、中国が純粋に医療物資を供与するという人道的な支援の形をとったのに対し、ロシアはあからさまに軍事的アプローチをした。対セルビア支援を中心となって統括してきたのはロシア軍であり、軍人や軍の医療要員はセルビア軍の作戦に組み込まれる形で、セルビアにおけるコロナとの戦いに参入したのだった。仮にコロナ渦が収束しても、ロシア軍はセルビアに残るとみられ、実際、ロシア軍の機関紙『クラスナヤ・ズベズダ』は、ロシア・セルビア両国が、コロナ問題だけでなく、他の問題にも対抗してゆく「統一戦線」を形成することについて幅広く論じていた。
第三に、プーチンはロシア国防省に対し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに対しても、セルビアと同様の手法で支援するように命じた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナもEU、NATOの潜在的加盟国だが、激しい内戦を経験し、国家建設途上にあることから、それらへの加盟はまだいくつかのハードルがある状況だ。プーチンがそのような指示をしたということは、ロシアがセルビアで行った支援は成功であり、かつそれがロシアの国益に極めて効果的だったと考えていることは間違いないと言えるだろう。
なお、プーチン大統領の指示を受け、ロシアのセルゲイ・ショイグ国防相は軍にボスニア・ヘルツェゴヴィナに対する支援を命じ、ロシア軍人24人と機材5台を搭載した3機の軍用機が派遣された。
また、軍による支援は前述のイタリアの他、アルメニア(後述)でも行われており、対外戦略における軍の役割は、コロナ問題でかなり大きくなったと言えそうである。
実際のところ、ロシアの民間医療は医療従事者に対する給与が極めて低いこともあり、軍事部門の医療体制より劣ると言われている。早急に良質な医療を提供するという観点から、ロシア軍を中心とした支援になった実情もあるとも考えられるが、ロシアがマスク外交に軍を活用したことは注目に値するだろう。
だが、NATOは中露のマスク外交を、「ハイブリッド戦争」だとして警戒した。2020年4月15日、イェンス・ストルテンベルグNATO事務総長は、「ロシアによる軍事活動が続いているが、NATOの軍および作戦を保護するためのあらゆる必要な措置をとる」と述べ、また、中露の「攻撃的」な宣伝活動への対応を問われると、ハイブリッド戦争への準備の必要性及び偽情報には自由で透明な報道が最善の対抗策だと返答した。また、NATO米代表部のハッチソン大使も4月14日の会見で、中露が発信している偽情報を懸念していることに加え、それらをハイブリッド戦争の一部だと考えていると述べていた。
支援外交の狙い4:友好国確保と影響力拡大
ロシアの外交戦略において、旧ソ連諸国を影響圏として維持することは最も重要な目的であるが、さらにかつてソ連が影響力を持っていた旧共産圏や、欧米、特に米国とNATOに揺さぶりをかけうるような国々、すなわち、EU、NATOの加盟国や潜在的位加盟国、米国と同盟関係にある国や地理的に近い国、反米国家、地政学的に重要な国々などとの関係を強化することも、またロシアが国際的な影響力を強めるためには重要な目的となりうる。そして、これらの国々へもロシアはマスク外交を展開した。
ロシアが進んで援助を申し出た事例と、ロシアが支援の要請を受けた事例があるが、例えば要請を受けた事例としては、スペインに加え、エジプト、シリア、リビア、カタール、モロッコ、チュニジア等、中東・アフリカの12カ国などがあげられる。これらの国々に対しては、主に物資の供与が目立つが、軍の派遣も行われた事例も少なくない。前述のボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、そして、ロシアにとっては旧ソ連の友好国でありながら、2018年の政変後にロシアとの関係に若干隙間ができたアルメニアなどがその事例にあたる。
アルメニアには、新型コロナウイルス検査キットのほかウラル連邦大学、ロシア保健省インフルエンザ研究所などが共同開発し、中国でコロナ治療薬として試験投与されていた抗ウイルス剤「トリアザビリン」の供与もなされた。その他、医療物資の供与も行われた。そして、4月6日の両国首脳会談の翌日、7日にロシア軍関係者がアルメニアに到着し、軍事基地で予防作業を行い、8日には両国外相会談も行われた。
また、供与する物資で目立つのは、ロシア国内で開発された新型コロナウイルス検査キットである。3月20日にロシア連邦消費者権利保護・福祉分野保護庁は、その検査キット10万個以上を、ユーラシア経済同盟及びCIS加盟国、すなわち、アルメニア、カザフスタン、キルギス、ベラルーシ、アゼルバイジャン、ウズベキスタン、タジキスタン、モルドヴァ、そしてイラン、モンゴル、北朝鮮、エジプト、セルビア、ベネズエラなどの友好国に供与することを発表している。これらの検査キット供与国に対しては、それ以外の支援も供給されたケースも多い。イランには新型コロナウイルス診断用検査装置500台も送られた。カザフスタンやキルギス、ベラルーシも5万件以上の検査を実施するための検査システムの他、医療物資の供与も受けた。そして北朝鮮は、ロシア製の新型コロナウイルス診断試験装置1500台の供与も受けている。また、ベネズエラは特別人道支援物資の供与も受けている。
そして、当然ながら近年、関係が緊密化している友好国・中国には一番早い時期に支援を行っていた。中国には2月に34トンのマスクと防護服を軍用機で供与していた。
とはいえ、7月くらいからは、対新型コロナウイルス問題をめぐり、中央アジアで、中露の援助競争が目立つようになってきた。中央アジアの感染状況は、不明瞭な部分も多く、例えばトルクメニスタンは感染ゼロを主張し続け、新型コロナという言葉を使うことすら禁止しているものの、実態は、どの国も相当深刻だと言われている。だが、中央アジア諸国全ての国で医療スタッフも医療施設も不十分だ。そのため、中露が援助合戦を始めたというわけである。そもそも、中露は中央アジアを巡り、表面的には双方のメガプロジェクトの連携を謳いつつ、実質的には勢力争いを展開していたという事実がある。最初に行動に出たのはロシアで、7月6日に最も状況が悪いカザフスタン(7月末の感染者数8万9000人)に、22日にはキルギス(7月末の感染者数3万5000人)に医療チームを派遣した。当時のロシアのコロナ感染状況は、世界で4番目に多いという厳しい状況にあった中で、このような動きにでた理由は、中国を意識したからだと言われている。近年、中国の影響力が強まり、本来であればロシアは勢力圏である中央アジアに中国が影響力を及ぼすことを避けたいなかで、ロシアが政治・軍事、中国が経済という棲み分けをすることで協調関係を維持しようというスタンスであったはずであるのに、近年の中国の進出は、政治、軍事部門にも及んでおり、ロシアとしても放置しておくことはできなくなっているのである。
他方、中国は7月16日に中央アジア五カ国と外相テレビ会談を開催し、新型コロナウイルス問題を議論し、中国が各国医療スタッフの防疫教育に協力することを提案した。中国は医療支援のほか、大規模な経済支援も検討しており、一帯一路事業で進行中のインフラ工事の費用の一部肩代わりなどの案なども議論されているという。とはいえ、この策は、一見、中央アジア諸国に対する支援のように見えて、中国の一帯一路プロジェクトを早期に成功させるための方便だと見られている。だが、このような中国の押しつけ型の政策は、結局、中央アジア社会の反中意識を高めることになり(中央アジア政府は中国に友好的だが、市民は中国のウイグル人弾圧問題や債務の罠の問題などで、反中意識が強い傾向がある)、中国にとっては爆弾を熟成させることになるかもしれない。
全体として見ると、歴史的関係もあり、この勝負はロシアに分がありそうだ。
なお、モルドヴァへの支援の事例はとても興味深い。モルドヴァには検査キットの供与の他、中国との共同援助も行われたのだ。ロシア航空宇宙軍は、四月半ばに中国からモルドヴァに総重量約40トンの医療支援物資を輸送し、これは新型コロナウイルス対策における、路駐の最初の共同人道アクションであると強調されている。
また、共同のプロジェクトはWHOとも行われた。コロナ渦のみならず、大洪水でも困窮していたジブチの要請を受け 、4月29日に、ロシアとWHOは行動プロジェクトとして、20以上の多目的医療モジュール、2つの医療部隊を構成するためのテントなど、13.5トンの人道援助をジブチに送ったのである。さらに、ロシアは援助を契機に、新たな「市場」の開拓も狙っているとされる。ウクライナ危機による経済制裁で、多くの「市場」を失ったロシアにとって、この機に新規開拓ができれば、ロシアにとっては望ましく、さらにその相手国とは経済的パートナーシップだけでなく、ロシアの影響圏を拡大しうる政治的な関係をも深めうるため、ロシアにとってはこれも重要なインセンティブとなったはずだ。
結びにかえて
このように、コロナ禍で生まれた新たな外交スタイルは、米中覇権競争、世界の地経学的状況に大きな影響を与えたと言って良い。2014年のウクライナ危機以来、欧米諸国から経済制裁を受け、国際的孤立が深刻であったロシアにとっても、自国の影響力を挽回する1つの好機だったといえよう。
また、現在進行中であるため、本報告書ではその分析を今後の課題としたいが、ワクチン外交は、当面外交の鍵を握りうる。特に、ワクチンが世界に行き届き、集団免疫が世界に広がるまでに4〜5年かかるという予測もあり、ワクチン獲得は当面、多くの国にとって死活問題となるからである。
コロナ禍が続く中、マスク外交、ワクチン外交の推移とそれによる地経学的な影響については今後も注視してゆく必要があるだろう。
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