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2021-01-10 00:00
(連載1)「天安門」抗命軍人の訃報が意味するもの
松本 修
国際問題評論家(元防衛省情報本部分析官)
1月10日の読売新聞の報道によると、中国共産党政権が民主化要求運動を武力弾圧した1989年の天安門事件で、弾圧への加担を拒否して5年間投獄された元中国軍少将、徐勤先(Xuqinxian シューチンシエン)氏が8日、河北省石家荘で死去、享年85だったという。この訃報に接して小生は、駆け出しの「情報マン」として32年前、中国情勢の収集整理に奔走した当時を思い出した。当時の情勢の概要をみてみよう。
1989年4月15日、87年に失脚した胡耀邦・元共産党総書記が亡くなり、学生や市民が追悼活動を始めた。やがて、それが言論の自由や腐敗撲滅を求める大規模な100万人デモ、いわゆる「民主化運動」に発展し、彼らは北京の天安門広場に集結、ここを占拠した。こうした不安定な情勢に対し、10月に建国40周年を迎える予定だった中国当局、中でも鄧小平・中央軍事委員会主席ら長老指導者は騒乱の根源を絶つべく5月19日、建国以来初の戒厳令を北京市内に布告して北京軍区(当時、現在は中部戦区に改編)を主力として、他の軍区からも人民解放軍の部隊総勢約15万人が進駐してきたのである。
軍が鎮圧行動に出るのは時間の問題であるようにみえたが、学生・市民らの活動は全く衰えず、軍の天安門広場等への進駐は阻まれて部隊配置が滞った。その「遅延」の理由として、戒厳部隊の中核となるべき、首都防衛を担う第38集団軍(当時、現在は第82集団軍に改編)内部で、当時の徐勤先・軍長(司令官)が「人民に武器を向けることは出来ない」と出動命令を拒否、解任されて軟禁状態に置かれ、代わりに張美遠・副軍長(司令官代理)と王福義・政治委員が部隊を率いて進駐するという「異常事態」が発生していたからだ。
6月4日の武力弾圧後、党籍を剥奪され軍事裁判で禁固5年の刑を受けて投獄された徐勤先には処刑説、病死説が流れていたが、今から10年前の2011年2月、エジプトやチュニジア等の独裁体制を崩壊させた「アラブの春」民主化運動の影響下、香港紙「リンゴ日報」の取材に応じて健在が確認され、かつての抗命行為に関して「既に過ぎたことであり悔いはない。やった以上後悔はしていない」とし、友人には「たとえ首を切られても歴史の罪人になってはならない」と語っていたという(以上2011年2月15日付「大紀元日本」)。(つづく)
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