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2020-09-09 00:00
「楊家将」楊白ヒョウ生誕100周年座談会が意味するもの
松本 修
国際問題評論家(元防衛省情報本部分析官)
1 はじめに
9月に入り、中国の習近平指導部は「攻勢」イメージを演出している。3日の「抗日戦争勝利75周年」記念式典における演説、7日の北京サービス貿易会における開幕祝辞、そして8日の「COVID-19」防疫対応式典における演説において、いずれも習近平中国共産党総書記・中央軍事委員会主席の論調は「中国共産党の指導」下による勝利、その指導が無ければ改革活性化も対外開放もなかったというものであった。さらに、習総書記は「いかなる勢力が共産党と中国人を引き裂き、対立させようとしても中国人は絶対に応じない」とし、「いわゆる『民主』・『自由』・『人権』などの看板を掲げて他国へ内政干渉することには断固反対する」と語り、これは「米国への回答」と外交部スポークスマンが注釈をつけたのである。ところが、中国メディアの報道をみて驚いた。9日の新華社通信は同日、楊白ヒョウ(にすいに水)生誕100周年記念座談会が北京で開催され、党内序列6位の趙楽際党中央政治局常務委員・中央規律検査委員会書記が出席したというのだ。これが一体何を意味するのか、以下考察していきたい。
2 「楊家将」とは何か
楊白ヒョウの名前をみた時、小生は既に「歴史の彼方」に消え去った存在が、数十年ぶりに姿を現したと思えて驚愕したのである。しかし、楊の経歴は先ず「改革開放の総設計師」鄧小平の右腕とされた楊尚昆(軍事委員会第一副主席、後に国家主席)の実弟という立場から始まる。楊尚昆は、いわゆる「鄧小平の軍事改革」(軍人100万人削減、七大軍区再編等)を軍事委員会第一副主席兼秘書長として手助けした軍人である。しかし、1989年「六四」天安門事件の発生は、軍内、ひいては中国の混乱を招き鄧小平も楊尚昆も軍から退いた。爾後の人民解放軍を仕切ったのが総政治部主任兼軍事委員会秘書長(いずれも当時、総政治部主任は政治工作部主任に改編、軍事委員会秘書長は廃止)となった楊白ヒョウであった。かつて中国は「軍権」を身内で継承した楊尚昆と楊白ヒョウの兄弟を、歴史的な故事にならい「楊家将」(楊家の軍人たち)と称したのである。しかし、奢れる「楊家」は久しからず、「軍は改革開放の護衛艦隊となれ」という楊白ヒョウが打ち出したスローガンが「野心的だ」「党を蔑ろにする言辞」として鄧小平、江沢民の逆鱗に触れて楊は失墜する。2013年1月、闘病中の楊白ヒョウは逝去し、葬儀には胡錦涛、習近平ら党・政府要人が訪れていたが、これ以降の報道は途絶えていた。
3 今回の座談会の概要
「重陽の節句」9月9日開催の楊白ヒョウ生誕100周年座談会を主宰したのは、中央軍事委員会政治工作部主任の苗華であり、楊の過去の事績を回顧したのは張又侠中央軍事委員会副主席であった。今のところ、細部の出席者は不明であるが、中央軍事委員会メンバーが座談会を仕切り、趙楽際政治局常務委員が出席した座談会には、「習近平の影」が色濃く差している。判断する材料はまだ乏しいが、今回、このような座談会が開かれた理由には、①「抗日戦争勝利75周年」に合わせた過去の軍人再評価を試みた、②楊を失墜させた江沢民、その右腕とされた曽慶紅への意趣晴らしを狙った、③以上の事例を踏まえて習近平の全面的なショーアップを行った等が考えられる。
4 おわりに
「政治家は常に歴史法廷の被告席に立たされていることを自覚せよ」と喝破したのは故中曽根康弘であったろうか。現下の日本では、想定外の現職総理退陣に伴う新総理(総裁)選挙が告示されて候補者が選挙活動に没頭している。しかし、こうした日本の状況を習近平ら中国指導部は、どのように認識しているであろうか。「他国の内政状況にはコメントしないが、注視している」と外交部スポークスマンは発言したが、「政治の季節」の中の熾烈な闘争現場に常に身を置いている中国要人からすれば、所詮「コップの中の嵐」と見なされるのではないか。
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