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2020-06-17 00:00
(連載1)報道における公平とは何ぞや
緒方 林太郎
元衆議院議員
最近、検察庁法改正に関する著名人の政治的発言に端を発しながら、報道における「公平」について議論が盛り上がりました。私は「誰が何言おうが(法に反しない限り)自由。その自由な意見の積み上げこそが民主主義である」という単純な見解を持っています。なので、特定の政治、政策を大絶賛する人、大批判する人、その言論の自由については100%尊重しています(勿論、内容については反論する事は多々あります)。個人的な利得のための賛美、批判であっても、(法に反しない限り)それは自由であるべきです。なので、「安倍晋三総理が憲法改正を口にする事罷りならん」も、「親韓的言論は言論空間から排除されるべきである」も、いずれも受け容れません。
では、「公平」についてですが、私は少し前に「公平さ(impartiality)は大事だが、それは中立性(neutrality)や不行動(inactivity)とは別」といった記事をあるメディアで書きました。テーマは国連における「中立」と「公平」の考え方の違いでした。
国連のミッションについても、放送法でも、求められているのは「公平」です。「中立)」ではありません。ここがとても日本では誤解されています。「中立」とは、誰にも肩入れしない事です。「公平」とは、すべての関係者を平等に扱う事です。若干雑な定義になりますが、中立は「平等に関わらない」、公平は「平等に関わる」というふうに私は理解しています。
報道に「(厳格な)中立」を求めるのであれば、恐らくは特定の政治、政策を論評する番組など作る事すら出来ません。賛同する人間、批判する人間、すべてを排除する事が必要となるからです。大半のコメンテーターは出禁です。「事実」だけを淡々と述べる番組しか作れないと思います(それとて事実への評価は入りますからかなり難しいです)。私はこれまでそういう厳格な意味での「中立」を主張している方を見た事がありません。(つづく)
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