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2020-06-02 00:00
「最後の編集者」粕谷一希試論
松本 修
国際問題評論家(元防衛省情報本部分析官)
1 はじめに
2020年5月30日は、日本の「最後の編集者」とみなされる粕谷一希(かすや かずき)の7回忌(享年84)の日であった。2014年の逝去後6年間の歳月を経て巷間からは、粕谷氏の名は忘れられたかもしれない。しかし、大学生時代から粕谷氏の薫陶を受け、30年近くの自衛官生活を過ごし何とか今まで生き延びられた身にとっては、その影響力はあまりにも大きくて深い。以下は、徒然と思い出される粕谷一希氏の思い出であり、その「遺産」とでも言うべき存在感への試論である。
2 略歴
粕谷一希氏の生涯に関しては既に、藤原書店から浩瀚な『粕谷一希随想集』(全3巻 2014年)や、『名伯楽 粕谷一希の世界』(2015年)が出されており、今更その後追いはしない。しかし、粕谷氏の略歴については、旧制の東京都立五中(現・小石川高校)の同期で英文学者の高橋英夫氏による「五つの雑誌で編集長を歴任した、学界・論壇の名伯楽」という文章があり、その概要を引用したい(『時代を創った編集者101』新書館)。「五つの雑誌」とは「中央公論」、「歴史と人物」、「アスティオン」、「東京人」、「外交フォーラム」のことであり、これらの雑誌で粕谷氏は編集長を歴任、兼任してきた。そして、編集長時代に粕谷氏は高坂正堯、萩原延寿、塩野七生氏らを世に出した学界、論壇の名伯楽であった。かつて存命中の粕谷氏に「編集者は一番最初の読者であり、僕が良いと認めた文章は絶対に採用して雑誌に掲載する」と言われたことがある。これは、粕谷氏が「一人のジャーナリストとして偏愛ともとれる情熱で新しい才能に執着」し、「人間の能力に対する追求と称賛」を行ったからだと思われる(2014年6月の葬儀における挨拶文より)。
3 個人的な思い出
個人的に粕谷一希氏と知り合ったのは、1982年の大学の授業であった。中央公論社を辞めた後、非常勤講師として講義「現代ジャーナリズム論」を担当され、それを受講したのである。粕谷氏の『戦後思潮 知識人たちの肖像』(日本経済新聞社)を読んでいた身からすると、その該博な知識に驚かされ、これを書いたのは一体どんな人物なのか興味が湧いたからである。そして、確か講義初日に「世論とは何か」というテーマでレポート提出を求められた。40年近くも経った今となっては、いかなる内容のレポートを出したのか忘却の彼方である。しかし、講義の中で粕谷氏は数編のレポートを取り上げ、拙稿も批評の対象となったのだ:「彼の見方はアマノジャクです、でも面白い」との言葉。授業終了後、「一体どこがアマノジャクなんでしょうか」と質問(抗議)したのに対し、「時間があるなら少し話さないか」と喫茶店に誘ってくれた粕谷氏。それが、粕谷氏との交流のスタートであった。
4 『メディアの迷走 誇りなき報道が国を亡ぼす』の衝撃
粕谷一希氏がまとめた同書は、1994年PHPから出されている。恐らく既に絶版であろうが、目次を眺めると筑紫哲也、西部邁、吉田直哉、坂本多加雄など錚々たる論客の名前が出ている。同書のテーマは「世論とは何か」を出発点に、新聞・雑誌・ラジオ・テレビなど「マスコミュニケーション」(マスコミ)が一層発展し、「マス・メディア」の作るニュースが「製造された事実」となり、その「イメージ」が人間や社会を衝き動かしているという当時の潮流に警鐘を鳴らすものだった。そして、粕谷氏は「マス・メディアの検討は、最終的に編集とは何かという問題に帰着する」とし、「マス・メディアは民衆の代弁者ではなく、それ自身、大きな社会権力である。だから、その権力を濫用してはならない」と喝破した。「マス・メディアの作業はつねに選択的構成という編集作業を基礎」にしており、「問題の選択、問題の構成の仕方に責任を問われる」からだ。これは今やSNS隆盛となった21世紀においても、見直す必要のある言説であろう。
5 おわりに
故人を想って、その業績を振り返る作業を「紙牌」をたてるということだと教えてくれたのは年子の賢弟であった。また、今や文壇も論壇も消滅してしまった現代に、恐らく「最後の編集者」と見なされる粕谷一希氏の存在感は巨大であった。しかし、今後も一隅から考察を継続していきたい。
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