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2007-06-05 00:00
日米同盟の古くて新しい問題
北神圭朗
衆議院議員
さる6月1日に東京で開催されたグローバル・フォーラム主催の「日米対話」において、アメリカ側の日米関係専門家の皆様方と議論をさせていただいた。一方では、日米関係は有史以来もっとも良好な関係にあるといった意見がある。他方では、日米同盟について、簡単に言えば、これで本当に日本の国益を守ることができるかどうか、といった意見が、少なくとも日本国民や政治家の一部にはある。
後者については、「マスコミはいつも不安材料に事欠かない」とか、「様々な問題について人々はいつも心配をするものである。しかしながら、結局、時は流れ、人々は生活を続け、国も繁栄を続け、あとで振り返ってみれば、実はたいしたことがなかったなあ、と思うものである」といったいささか遠大な、宗教的遠近法の観点から、受け流されてしまったような感がある。しかしながら、私は今の日米同盟体制、ひいては日本の安全保障体制について心配しない方がどうかしていると思う。というのも、片務的な同盟のあり方、日本の極めて脆弱な独自の安全保障体制のあり方をみると、古今東西の独立国と比較しても、やはり否と言わざるを得ないのである。
今、日米同盟の議論については、大きく二つの視点があるのではないか。一つは、冷戦崩壊の後「世界のための日米同盟」という流れの中で、いかにアメリカの世界戦略のニーズに自衛隊が積極的に対応していくのか、といった課題がある。もう一つは、日本がここまで国力を蓄え、防衛に関する戦後のトラウマを乗り越えつつある中で、どのように独自の防衛体制を固めていくか、という視点である。これまでの「世界のための日米同盟」という宣言から、ガイドラインの見直し、有事法制の整備、集団的自衛権の解釈の変更の議論、憲法第九条の改正論は、現実には 基本的に一つ目の視点でなされてきたように思う。
しかしながら、一番大事なのは二番目の視点ではないか。未だに日本は、米国が何らかの形で支援をしてくれることを前提にしなければ、中国、北朝鮮、ロシア、あるいは、シーレーン防衛などを対象とした防衛体制を考えることができない。もちろん究極の核兵器の問題はあるが、それを理由に、そうした究極の戦争形態に到るまでの、通常兵器による紛争事態、あるいは抑止体制を議論しないのは思考停止であり、空想的な立場である。
もっと言えば、そもそも軍事情報について今の防衛省は努力をしているものの、米国の情報網に過度に依存していると言わざるを得ない。現に、テポドンが日本の頭上を超えていっても、日本の独自の情報ではそれを捉えることができないのである。独立国家としては、こうした異例の防衛体制、というよりも、防衛体制の欠如が存在するからこそ、――ブレジンスキー博士は、日本は軍事的には「保護国家(protectorate)」であると明言している――いつも「有事の際は、本当にアメリカは助けてくれるのか」といった類の女々しい危惧の声があがってくるのではないか。換言すれば、どうも安全保障コミュニティーの主流派の議論は、ブレジンスキー博士の”The Grand Chess Board”の分類に従えば、「グローバル・パワー」としての日本を前提としていて、「リージョナル・パワー」としての日本を度外視しているように思われる。
ひとまず、私の問題意識について述べさせていただいた次第である。これはもちろん簡単な問題ではないということは承知の上で、今後とも、もっと深く追求していきたい課題である。
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