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2019-11-18 00:00
曲阜訪問を振り返る
池尾 愛子
早稲田大学教授
2018年10月28日の本e論壇に「国際二宮尊徳思想学会曲阜大会に参加して」と題して投稿したように、孔子の生誕地曲阜(山東省)では、文化大革命の折、建造物や城壁・門が壊され、石碑は割られ、儒教(およびその研究者)は迫害された。そして、儒教の書を燃やすように命令が出されたのに対して、人々はその一部を新建造の壁の幅を広くして間に隙間を作って、その間に書物を隠して守った跡も遺跡として残されていた。
文化大革命の時期、中国は混乱していた。ダニエル・ヤーギンのエネルギーの書『探求』第9章では、石油産業は中国の国家安全保障にとって重要なので保護されたため、昼間はボスとして働く一方、夜は「間違っていました」と労働者・生徒たちの前で謝罪しなければならなかった中国海洋石油総公司のチーフエコノミストの体験が紹介されている。若者たちが進学の道を断たれて、農村や工場などに肉体労働者として派遣されていたことはよく知られている。アジアインフラ投資銀行初代総裁の金立群氏(1949年生れ)の場合、江蘇省の農村で10年間農作業に従事している間に、シェークスピアを読むなどして英語力をつける努力を続けていた(『日本経済新聞』2015年8月26日朝刊)。1956年前半に生まれた人たちまでが下放などの対象となっていたようだ。とすれば、そろそろ国際学術交流がもっと盛んになってよいはずである。
ところが、中国の研究者たちと交流してきて気になることの一つに、敢えて年齢を推測すれば、1956年後半から1960年代半ばまでに生れたと思われる世代の研究者に会うことが少ないことがある。文化大革命の時期に、小学生だった世代にあたる。大学は閉鎖され、その下の方の学校では教師たちが迫害されていた。教職者が家庭で親として子供を教育していたことはあったようだ。しかしながら、小学校での普通の教育活動がかなり停止していたところが多かったのではないか。とすれば、より自由な国際学術交流の開始にはまだ時間がかかる可能性がある。5年先、10年先ではないだろうか。
私は日本語の出来る中国人研究者たちを中心に交流してきたのであるが、日本語を通しての交流では、中国語での経済用語と、日本語での経済用語のズレは少なくなってきたと思う。中国側が意識して、市場経済制度を採用して経済政策を論じてきた日本での用語法に近づけてきた感がある。しかしながら、経済中国語と、経済英語との間ではまだズレがあると感じられる。そのギャップを埋めるためには英語母語話者たち又はそれに近い英語の達人たちが頻繁に中国を訪問して学術交流する必要があると思う。中国は共産主義経済制度を採用し、その中で経済政策や経済制度の調整を議論してきた国なので、経済の専門用語体系が異なっていても不思議はないと思う。ただ、いかなる経済制度を採用していても、国際経済・国際金融の分野において政策・制度の問題を議論し、必要な政策・改革を実施してゆかなくてはならないことも確かであろう。
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