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2019-11-05 00:00
『国富論』研究のために
池尾 愛子
早稲田大学教授
「アダム・スミス『国富論』は、日本の経済学の基礎ではない」との主張と、日本語母語話者によるスミス研究とは矛盾しない。本e論壇「『国富論』と和訳の問題」と題して、2019年7月29日に書いたように、『国富論』に頻出する「industry」が「生産的労働」と和訳されていることがある。加えて同書には「productive labour」の用語も用いられており、こちらはもちろん「生産的労働」と和訳されている。日本語だけで議論すると、『国富論』を誤読してきた可能性があることに留意してほしい。
つまり、「生産的労働」と和訳された「industry」は、『国富論』を英語で議論する時には、もちろん「industry」に戻さなくてはいけないが、それだけでは済まない可能性がある。『国富論』について議論するときには、日本語で行う時にも、英語の原文を確かめて、「industry」を原語とする「生産的労働」は、「productive labour」を原語とする「生産的労働」とは異なることに注意して、議論し直す必要があるのではないかと思う。「生産的労働」に関するトピックに触れていなければ、問題ないようにみえるかもしれないが、「industry」にふれずに、長年、スミス研究を続けてゆくことは困難であろう。(『国富論』の文脈で、「industry」を「勤勉」と訳すのは難しそうである。)
2018年、長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録された。その副産物だといえるが、近世から明治期の途中までキリスト教が禁止されており、日本ではキリスト教が公式に存在しなかったことが世界中に知れ渡ることになった。ヨーロッパで正統派経済学というとき、たいていはキリスト教経済思想に基礎をおくものを指している。この意味で、日本の経済学は、ヨーロッパでいう正統派経済学ではないことに議論の余地はない。そしてスミスの political economy (経済学の英語での古い呼び名)もキリスト教を帯びているので、「アダム・スミス『国富論』は、日本の経済学の基礎ではない」とするのは、正しいと信じている。さらにフランスで、「経済学の父」の話をすると、(スミスより前の)重農主義者フランソワ・ケネーがあげられる。
実は1990年代、ある日本人研究者に頼まれて、西洋と日本での『国富論』の読み方・論じ方の相違を調べてみることになった。この経験からいえば、西洋思想研究者でも、日本語母語話者の場合、『二宮翁夜話』あたりを読んで、尊徳思想が神道、仏教、儒教を帯びていることを確認して、『国富論』原典にキリスト教を意識的に読み込む努力をしてもよいのではないかと思う。経済思想史研究での新しい国際貢献は、日本経済思想史研究に基づいたものから出るのではないかと考えている。私自身は、日本経済思想史の連続性に関心があり、そして東アジアで共有される要因を解明することに没頭したいと考えている。
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