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2019-11-01 00:00
(連載2)GATTを振り返る
緒方 林太郎
元衆議院議員
ハバナ憲章を読み直してみると、失業、賃金、雇用にまで踏み込んでいたり、各国の一次産業保護の視点が読み取れたりして、追求しようとした崇高な理念と見識の高さには目を見張るものがある。ITO憲章が死に体になると、残るのは「暫定的適用」でしかないGATTだけである。これはただの関税と貿易に関する協定であり、国際機関ですらない。当初はGATTの事務局を作る事すら想定されていなかったが、ITO構想が崩壊したため、事実上の国際機関として実績を積み上げていかざるを得なかった。
発足後6回のラウンド(関税引き下げ交渉)を行う中で、GATT加盟国は増え、また、自由化の度合いは高まっていった。しかし、GATTのルールでは捕捉できないような様々な貿易の妨げになる手法が横行するようになっていった。世界経済が停滞していた昭和57年のGATT閣僚宣言を改めて読み直してみると「GATTのルールの下、一定の自由化は進んできているが、一方でムチャクチャやっている国(主に先進国)が増えてきている。しかも、GATTのルールが古臭くなってきている。ここらへんでタガを嵌めないととんでもない事になる。」という危機感が伝わってきた。
先進国のムチャクチャなやり口に途上国が怒っているようにも読める。当時は2度のオイルショックを経て、高失業率とインフレの同時進行であるスタグフレーションの時代だったので、現在とは少し事情が違うが、閣僚宣言の文章を読んでいると、現在の危機的な状況への認識と大差が無いので驚く。当時は日本も輸入禁止品目や極めて不透明で輸入制限的な措置が講じられていた。コメ、小麦、大麦、乳製品の一部、でん粉、雑豆、落花生、こんにゃくいも、繭・生糸及び豚肉といった品目については、●%(従価税)、●円/kg(従量税)といった簡潔な関税構造をしておらず、何らかの不透明で輸入制限的な仕組みがあった。ただ、それが通商ルール上違法だったわけではない。
そして、このような事態を乗り越えるために、かなり包括的な交渉分野を対象とするウルグアイ・ラウンドが昭和61年にスタートする。これがGATTの起こりからWTOへの流れである。戦後の貿易や通商のルール作りの歴史ともいえるGATTがわかってきただろうか。また、日本にとってのWTOの重要性や日本がTPPを重視する背景など様々なことに察しがついてきたはずだ。WTOの話はまた次の機会としたい。(おわり)
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