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2019-10-29 00:00
ヴィカリーの累進課税研究
池尾 愛子
早稲田大学教授
2018年夏の第18回世界経済史会議(米ボストン)の折、招待講演者の一人トマ・ピケティ氏(フランス)と話す機会があった。彼の講演「格差の拡大と政治的対立構造の変化」を聴いて、質疑応答の途中で退席して、レセプション会場に向かい、会場となっている美術館で鑑賞した後、遅れてレセプションにやって来た氏と目が合ってしまったのだ。彼の講演を称賛しただけでは済ませてもらえなかったので、「格差問題は具体的にはどうやって解決するのですか」と質問すると、「累進課税が有効です」と即答が返ってきた。同意するしかない。フランス経済学の道具箱にも累進課税は入っている。
累進課税制度研究といえば、米コロンビア大学のウィリアム・ヴィカリー(William Vickrey、1914-96年)が有名である。彼はシャウプ税制改革団の一員として来日しており、横浜国立大学所蔵のカール・シャウプ・コレクションの中に、累進課税制度を理論的に研究する彼の論文が残っている。コロンビア大学の経済学者たちは、ニューヨーク市の税制委員会に代々参加していたようで、税制度に対する研究関心は極めて高く、理論研究も応用されることをめざしていた。1996年にノーベル経済学賞を受賞したにもかかわらず、ヴィカリーの税制研究が一般的にはあまり知られていないのは、彼が授賞式の前に亡くなったからかもしれない(実は、私の元同僚でヴィカリーの授業を受けた経済学者から聞かされた)。彼が授賞式で講演をしていたならば、格差問題の深刻さと累進課税の有効性が印象深く伝えられたに違いないと思われるので、大変残念である。アメリカでも標準的な経済学の道具箱に、累進課税は入っている。それを授業で教えるかどうかは、担当する経済学者に依存する。
何年か前、アメリカの大学に短期滞在していた時、それは2008年より前だったと思う。教授のA氏に「ヨーロッパの歴史家のB氏が到着したので、彼の研究室を訪問しなさい」と促された。B氏は講義をするので研究室を与えられていた。部屋に入ると、彼は銀行開設のために電話をかけるのに忙しくしていた。多少待って、多少話して退室した。数日後、A氏に「B氏の銀行開設はどうなったんですか」と尋ねると、彼は目を丸くして、「B氏までそんなことをしようとしているのか」と驚いていた。アメリカでは経済学を応用してビジネスにつなげられる――そうヨーロッパでは信じられているようで、アメリカに来ると経済学の知識を応用しようとするヨーロッパ人経済学者が絶えないとのことだった。もっとも、B氏の場合、アメリカでの銀行開設の手続きを確認したかっただけかもしれない。
『週刊東洋経済』2019年11月2日号掲載の書評を読んで驚いた。「アメリカの経済学者の多くが民主党を支持している」と書かれている。異変が起こっているようである。私の知る限りでは、アメリカの経済学者の多くは共和党を支持していた――そうある時の政策懇話会でも発言した。経済や経済学のイメージは各国でかなり異なっていると思う。「日本語の『経済』は『経世済民』に由来し、それは『世の中(経済)を治め、民を救う』という意味です」と説明している。たいてい相手は目を丸くして、「頻繁に介入があるようですね」などと反応する――「そうですね」と相づちを打ってきた。おそらく近世以来の日本経済思想に経世済民思想が根付いていて、日本では格差問題に敏感なのではないかと思う。グローバル化が進む中では、日本経済思想の特質を見極めておくことも必要なのではないだろうか。
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