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2019-09-30 00:00
(連載2)北京滞在11日間
池尾 愛子
早稲田大学教授
帰国する前日の夕方には、学部生向けの講義「戦後日本経済史」を実施した。通訳担当の大学院生は、私の講演でも通訳を務め、通訳なしの講義でも丁寧に事前配布資料を読んで議論に参加してくれていた。私も他の講義や講演と関連するように、国際経済関係からみた「戦後日本経済史」としてまとめた。招待者から、戦後占領期の改革をぜひ入れてほしいと要望されたので、それに応じた。日本は間接占領されていたので、1946年には旧憲法のもとで選挙が実施されたこと、新憲法を国会で承認したことも入れた。世界銀行の日本への融資31件について一覧表を提示し、一部を写真つきで解説した。東南アジア諸国との関係では1977年の福田ドクトリンを入れ、1980年代半ばの貿易摩擦にも簡単に触れた。講義後、7人程の学生から質問を受けた。うち3人は日本語で質問したので、外国語の学習に熱心なことが伝わってきた。私は史的事実を述べて回答した。授業、通訳者とも、学生と担当学部の双方から好評を得られたようだ。
大学院生向けの授業で通商産業省(通産省、現経済産業省)の「行政指導」を扱うために、日本の経済発展や政策についての英語文献をかなり渉猟した。日本通の経済学者マーティン・ブロンフェンブレナー氏が1965年に「日本の『経済計画』は実際のところ『経済見通し』である」と特徴づけ、「通産省の政策がフランスの『計画化』を手本にして、『人参』で民間部門を誘導しようとするようなものだ」とした。それに対して、E.J.カプラン氏が1972年の商務省報告で、「行政指導に従わなければ、民間企業は後で不利な扱いを受けるかもしれないと感じて、それに従う側面があるので、『人参』だけではなく『鞭』も使っている」と表現した。中国では、「carrots as well as sticks」は「人参と棍棒」と訳すことになっているそうである。しかし、「馬を打つものは何ですか?」と尋ねると、「鞭です」との答えが返ってきた。中国語表現と英語表現の間にズレがある場合、専門用語については修正に向けて説得するものの、それを越える部分の修正については、非英語母語話者には説得困難であると感じられて回避したくなるものである。そのため、1990年頃以降、日本の行政指導は「法令遵守」「消費者保護」に向けて実施されるようになったと説明したのだが、納得してもらえなかったようである。(2019年7月30日付本e論壇投稿「『通産省と日本の奇跡』の新訳に寄せて」参照。)
滞在終盤、中国社会科学院日本研究所を訪ね、有沢広巳文庫のカタログを閲覧させていただいた。それによると、公刊書籍や定期刊行物、政府委員会の資料など印刷物のみで、日記はおろか手書き資料のようなものは全くない。カタログの冒頭には、「中日友好のために、蔵書を寄贈する」と書かれている。改革開放後、中国科学院から社会科学院が分離して独立したあと、何方氏が日本研究所の創設を力説し実現させて初代所長に就任した。その何方氏が日本滞在中に有沢氏と会っていたことまではわかった。有沢氏が生前中国を何度か訪問していたと語る中国人研究者は、どこかにその資料があるはずだ、と主張する。エズラ・ヴォーゲル氏の(聴取り調査に基づく伝記)『鄧小平』(原著、2011年)では、主人公が政治的情勢をその都度考慮しながら、自身で改革開放に向けて判断したように書かれている。
今回の北京訪問では、大学内の宿舎に滞在させていただいた。英語のニュースチャネル(China Global Television Network、CGTN)で、香港の出来事やニューヨークの国連総会の様子は見ていた。キャンパス内で、現金で食事をしたり買い物をしたりすることができた。しかし、Wechatアカウント(中国の身分証明書番号と銀行口座番号が必要)がないので、洗濯機が使えなかった。インターネット接続はある程度確保できたものの、日本経済新聞、ファイナンシャルタイムズ紙、日本のアマゾン、ニフティ・メールにアクセスできなかった。Gメールやファイスブックにはアクセスを試みなかった。学生たちは勉強熱心である。5年後、10年後、中国はどうなっているだろうか。(おわり)
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