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2019-06-17 00:00
穂高議員糾弾決議の是非
倉西 雅子
政治学者
政治家である議会の議員については、でき得る限り自由に発言できるよう、憲法においても厚くその地位が保障されています。議員とは、民主的選挙を経て選ばれた国民の代表ですし、言論の自由の保障こそが健全な民主主義国家を支えているからです。政治家が自由に議論を行うことができない状態に至りますと、民主主義も形骸化してしまいます。日本国憲法にあっても、その第51条において、‘院内’に限られているとはいえ議員の発言・表決の無責任に関する条文を見出すことができます。そこで問題となるのは、穂高議員の院外における発言に対する国会での糾弾決議、否、事実上の議員辞職勧告決議です。同決議は、穂高議員に対して自らの発言や行動の責任を採るように迫ったわけですが、ここに、第51条をめぐって二つの解釈が成り立つように思えます。
第一の解釈は、国会議員とは、国民の代表でありながら、常に政治的なライバルからその発言を指弾され、職を追われるリスクを負う立場にあるため、とりわけ‘院内’での発言については、その無責任を憲法で保障したと言うものです。言論の自由を加重に保障したとするこの解釈に基づけば、‘院外’の発言についても当然にその自由は保障されるべきとなります。つまり、糾弾決議は、憲法に違反するものではないにせよ、政治家の言論の自由の重要性に鑑みれば、同決議は過剰反応、あるいは、政治家に対して手厚く保障されている言論の自由を、自ら否定したに等しい行為ともなりましょう。
第二の解釈は、議員が責任を問われないのは‘院内’の発言のみに限るとするという限定説です。この解釈では、‘院外’の発言については、保護されるべき議員であっても責任を問われることとなります。この結果、政治家は自らの発言について慎重になりましょうが、言論の自由の観点からしますと、他の政治家や政党、あるいは、メディア等から責任を問われるリスクを恐れて言論活動の委縮が生じるかもしれません。つまり、自由な議論を基盤とする民主主義に対しては、マイナス影響を与える可能性がありましょう。もっとも、‘院内’での発言については憲法上一切問責を受けませんので、タブーなき自由闊達な議論は国会でこそ実現するかもしれません。
糾弾決議を読みますと、丸山議員のケースでは国会議員としての品格を欠いた行動も問題視されていますので、辞職を求める理由は、その発言内容のみではないのでしょう。しかしながら、品格の欠如が辞任勧告理由となりますと、自らの胸に手を当ててみて明日の我が身を心配する議員も少なくないかもしれません。となりますと、やはり、戦争への言及、及び、ロシアへの配慮が最大の要因なのでしょうが、政治家の言論に関する上記の考察からしますと、国会での糾弾決議は、必ずしも必要不可欠な措置ではありませんし、小泉進次郎議員が棄権したとはいえ、全会一致での採択も過剰反応のようにも思えます。況してや、日本国の国会の糾弾決議成立がロシア側にアドバンテージを与えるとしますと、日ロ交渉において日本国側を不利とし、‘二次災害’にもなりかねないリスクもあります(結果として国益を損ねてしまう…)。既に決議は成立しておりますので取り消すことは難しいのでしょうが、せめて政治家の言論の自由の保障について認識、あるいは、議論を深める機会とすべきではないかと思うのです。
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