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2019-05-16 00:00
(連載1)平和教育とは支配者による無抵抗教育
倉西 雅子
政治学者
「平和」と云う言葉には、誰もが好感を寄せるものです。令和の元号にも‘和’という文字が使われ、平和を強く意識した選定とされています。争いのない世界は、人々に心の安らぎを与え、安定した生活をも約束するからです。
しかしながら、争いのない状態とは、必ずしも、国と国、あるいは、人と人との間の平等や社会の公平性を意味するわけではありません。平和が純粋に善い意味を持つのは、主体間に支配・被支配関係や位階秩序を造らない場合に限られます。歴史を振り返りますと、主権平等の原則の下で国家間の関係が対等になったのは、国民国家体系が成立した近代以降のことです。それ以前の時代では、帝国体制、封建体制、冊封体制、植民地体制など、強国が軍事力にものを言わせて弱小国を支配する体制が一般的でもありました。
つまり、たとえ平和ではあっても、侵略や謀略等の手段により主権を奪われる、他国や異民族等から一方的な支配を受けるケースが少なくなかったのです。あるいは、戦争を経て征服されないまでも、大国が角逐する中で自力での防衛が不可能となり、大国の属国や保護国となった国もあります。こうした状態は、‘奴隷の平和’とも称されるのですが、このような暴力的な支配を伴う平和は、人類の未来像として望ましいのでしょうか。
憲法改正が政治課題として提起されている今日、平和を考えるに際して、対等性と非対等性との二つの状態を明確に識別しておく必要があるように思えます。そして、今日、軍事大国化した中国が、おそらくステイクホルダーとしての国際組織のバックアップの下で、アジア、否、世界大において、21世紀の新秩序として後者の秩序を打ち立てる実行国の役割を果たそうとしている現状を考慮しますと、前者を想定した平和教育には後者による‘平和’を後押ししてしまうというリスクがあります。(つづく)
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