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2019-04-13 00:00
性悪説と性善説
池尾 愛子
早稲田大学教授
ジョン・デューイの北京講義録『杜威五大講演』(中国語訳、1920年、その英訳 John Dewey: Lectures in China, 1919-1920、1973年)の政府についての章の中に、中国哲学における性悪説と性善説に言及した行(くだり)がある。デューイは西洋の政治哲学ではこのような区別はしないことを明言して、「人間本性は本来的に悪であるとの想定」、「人間本性は本来的に善であるとの想定」との表現を用いて区別している。
人間観にかかわる性悪説と性善説の区別は、西洋政治哲学はさておいて、西洋経済思想史を分析するときには、有効なように思われる。1950年代から経済学での数学利用が急速に進んで、議論が形式化され、インセンティブ(誘因、やる気)やモラルハザード(道徳的陥穽)も分析の俎上に乗り、そこでの人間観は性悪説に基礎づけられるようになったといえる。それに対して、遡って、アダム・スミスになると、本e-論壇(「社会科学と哲学・人文学の境界」2018年10月1-2日)で紹介したように、キリスト教を帯び、性善説に基礎をおくといえる。だからこそ、「利己心に導かれる、調和のとれた市場経済」を構想することができたのである。性悪説と性善説を区別する観点からすると、このような人間観の変化はよく見えるものである。ただ数理経済学の長所はいかなる宗教をもった人でも扱える点であり、道徳・倫理の問題は扱う経済学者の心のうちにしまわれる。私は英語での研究を「日本の数理経済学史」から始めたのであるが、このテーマで欧米で発表した時にはセッションの参加者がわりと多く、また討論も面白かったのである。
欧米では、上のような人間観の変化に対する論評、あるいは性善説から性悪説への変化に対する批判といえるものはある程度行われたように思う。宗教の観点や道徳の問題が薄まってゆき、20世紀の後半になると、「犯罪の経済学」まで登場した。西洋においては、経済学での数学利用それ自体に対してあまり批判がないのは、均衡(equilibrium)や最適(optimum)などラテン語出自の鍵用語が採用されたからだと考えられる。性悪説は荀子(紀元前)が提唱したとされ、二宮尊徳の経済哲学の基礎に荀子をおこうとする議論を中国人研究者からよく聞いている。確かに、荀子の思想を眺めると、「小を積んで大となし」という言説が出てきて、教育・学問が勧められているほか、統制、規制や行政指導の採用の基礎になりそうな議論も見受けられる。しかし二宮尊徳の場合、石田梅岩や石門心学の流れをくむ不二考衆との交流、貝原益軒の著作を読んだこと、荒村再建に向けての徹底調査・解決策の提案と実行の経験の方が重要であろう。
1990年代、私はアダム・スミスをめぐる議論が欧米と日本であまりにも違うので、英語母語話者や西洋人研究者達と議論を重ねた。その結果、『国富論』の英語はキリスト教を深く帯びて難しすぎ、「スミスは日本の経済学の基礎ではあり得ない」と確信して、日本の(近代)経済学・経済思想の基礎を探求した。中国の人たちに対して、スミスを推奨する西洋人の言説を時々見かけるのだが、その意図がわからない。スミスの著作は非西洋人には(非英語圏の研究者にとっても)難しすぎる古典で、西洋人・英語圏の専門家達と議論をしなければ決して理解を共有できるものではない。先のe-論壇投稿で論じたことに関連させると、「経済成長・経済的繁栄」とともに「人々の幸福」を考える方がよいと勧めているのであろうか。それとも、性善説を採択することを勧めているのであろうか。だとすれば、スミスではなく、性善説と結びつけられる孟子(紀元前)でもよいのではないか。孟子は、明治時代、日本でキリスト教を議論するときに用いられたことは多分けっこうよく知られているのではないかと思う。
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