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2018-12-20 00:00
2025年の大阪万国博覧会には国がない
倉西 雅子
政治学者
大阪府は、2025年開催の万国博覧会を誘致いたしました。高度経済成長の象徴ともなった‘1970年の大阪万博の夢をもう一度’ということなのでしょうが、財政負担の問題もあり、今一つ、全国的には歓迎ムードに欠けるようにも見えます。その理由の一つは、2025年と1970年の両万博とを比較しますと、そのコンセプトに決定的な違いがあるからなのかもしれません。万国博覧会には、全世界の諸国からそれぞれの独自の文化を紹介するパビリオンが出展された、いわば、世界規模のテーマ・パークといったイメージがあります。万国博覧会の入場ゲートをくぐると目の前には‘ミニ世界’が拡がっており、小さな空間でありながら、会場を一周すれば、全世界の諸国を模擬体験できるような‘わくわく感’があったのです。海外旅行が一部の人々に限られ、インターネットも普及しておらず、テレビでさえ海外取材の番組が乏しかった時代には、自国に居ながらにして世界の多様性を体験できる万国博覧会は、国民を熱狂させるに足る魅力に満ちていました。因みに、1970年の大阪万博では6000万人を超える来場者があり、凡そ、外国からの来場者を差し引いても国民の半数ほどが‘ミニ世界’を楽しんだ計算になります。
日本国におけるこうした万国博覧会のイメージは、博覧会場に足を運べば全世界の諸国で培われてきた多様な伝統文化に触れることができる一生に一度か二度の貴重なチャンスであるというものなのですが、半世紀の時の流れは、万国博覧会のコンセプトを著しく変質させています。それは、大阪府が誘致に際して作成したプロモーションビデオを見れば一目瞭然です。そこには、‘万国’がないのです。描かれた会場予想図はSFなどに登場するような未来都市であり、同博覧会のコンセプトも“未来社会の実験場”です。そして、2025年の大阪博覧会の狙いは、上述した国内の来場者に世界各国の文物を紹介する場ではなく、逆に、日本から世界に向けて未来技術等を発信する場としているのです(多数の外国人来場者を見込んでいる…)。メイン・テーマが「いのち輝く未来社会のデザイン」であることからも、2025年の大阪万国博覧会では、世界各国の文化や芸術が‘展示’されるのではなく、様々な先端技術が駆使されている未来都市のモデルが‘提示’されることになるのでしょう。そしてそれは、グローバル化の先に見える画一化された人類の未来社会図なのかもしれません。グローバリストの人々は常々多様性の尊重を掲げておりますが、その行き着く先は、やはり、世界中どこにいっても同じ光景が広がる、文化の多様性が消滅した無味乾燥とした世界なのでしょう。
そして、‘万国博覧会’の始まりが、ヴィクトリア時代の1851年に産業革命の発祥の地であるイギリスのロンドンで開催された「万国産業製作品大博覧会」であった点を思い起こしますと、さらに複雑な気持ちにもなります。同博覧会は、当時にあって世界最先端の技術の粋を集めた発明品等の展示会であると共に、植民地主義が色濃く漂う自然や文化の祭典でもあったからです(第二回万国博覧会であるパリ万博は、諸国の伝統文化を展示するというコンセプトとなっており、日本からも、多くの伝統工芸品が出展され、称賛を受けた)。科学技術の発展とリンケージした未来志向については第一回のロンドン万博の原点に戻ったとも言えるのですが、果たして、19世紀に遡る科学万能主義的なヴィジョンが、未来都市のモデルとして、全世界に拡散されることが人類にとって望ましいのか、疑問を感じざるを得ないのです。
画一化される人類の未来図への抵抗から、辞退という方法もあるかもしれませんが、せめてもの願いは、未来都市のヴィジョンの如何に拘わらず、研究・技術開発予算が低水準にある中、万国博覧会の成功を目指して、日本国政府、大阪府・市、並びに民間企業が、世界に誇る日本発の独自技術の開発に積極的に取り組み、日本国が、人類が抱える諸問題を技術を以って解決する力を有することを全世界に示すチャンスとすることではないか、と思うのです。この点に鑑みれば、見かけよりも内容で勝負し、会場建設費よりも展示品となる技術開発にこそ予算を注ぎ込むべきなのではないでしょうか。
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