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2018-10-22 00:00
(連載1)日米貿易摩擦から中国が学んだこと
六辻 彰二
横浜市立大学講師
9月17日、トランプ政権が2000億ドルにおよぶ中国製品の関税引き上げを決定し、貿易戦争を加速させたのに対して、中国は翌18日に報復関税の措置をとると発表した。既に輸出の縮小などの影響を受けているにもかかわらず、引く構えをみせない中国からは、「日本の二の舞を避けたい」という意志をうかがえる。中国系カナダ人で、マスターカードのグローバル・チーフ・エコノミストなどを歴任したユワ・ヘドリック・ウォン博士は、中国政府にとって1980年代の日米貿易摩擦が「アメリカの圧力に譲るな、対米輸出に頼りすぎるな」という教訓になっていると指摘する。1980年代のアメリカでは、市場にあふれかえる日本製品に対する反感が、日本製品に対する関税引き上げや日本の輸入規制緩和を求める世論「ジャパン・バッシング」の台頭を招いた。
これに対して日本政府は、自動車や家電製品などの輸出の「自粛」を各企業に要請するとともに、在日米軍に対する「思いやり予算」やアメリカ国債購入額の増加、アメリカが求める金融、農産物輸入の規制の緩和などで「アメリカからの圧力を受け流す」ことを優先させた。安全保障面でアメリカの協力が欠かせなかっただけでなく、日本の輸出に占めるアメリカの割合が大きかった(IMFの統計によると1980年代の10年間の平均で30パーセント以上)ことも、この選択を促したといえる。しかし、アメリカとの対決を避け続けたことは、結果的にアメリカの要求をさらにエスカレートさせた。その象徴が1985年のプラザ合意だ。
プラザ合意では、日米に英、仏、西ドイツを含めた5ヵ国が協調して為替相場に介入し、ドル高を是正することが定められた。ドル高是正はアメリカの輸出競争力の回復を目指すもので、入れ違いに円高をもたらし、日本は輸出に不利な条件を抱えざるを得なかった。その一方で、円高・ドル安が進行したことで、それまで高嶺の花だった輸入品の消費が容易になっただけでなく、折から金融取引の規制が徐々に緩和されたことで、日本では空前の好景気を迎えた。ただし、金融取引の加熱はバブル経済をもたらし、これが1991年にもろくも崩壊した後、日本は長い低成長の時代を迎えた。プラザ合意は、まさに泡のような一時の享楽の後の苦難の入り口になったといえる。
アメリカへの輸出が日本の経済復興・経済成長の大きな柱になり、アメリカ経済の回復が日本にとっても利益になる状況にあったことから、プラザ合意の受け入れは現実的でもあった。とはいえ、アメリカが自らの購買力を盾に圧力を加えた時、これに抗しきれなかったことが、その後の日本の進路を大きく左右したことは確かだ。バブル時代に膨れあがった、必要性の疑わしいものの多かった公共事業費は、巨額の財政赤字の一部として、今もその影響を残している。これを現代の貿易戦争に照らし合わせると、当時の日本と現在の中国では、政治的な立場も経済構造も異なる。しかし、アメリカと同盟関係になく、当時の日本より輸出に占めるアメリカの割合が低い(IMFによると2017年段階で19パーセント)からこそ、中国にとって日米貿易摩擦の顛末が「アメリカの圧力に譲るな」や「対米輸出に依存しすぎるな」という教訓になっても不思議ではない。(つづく)
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